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ホリィ(新人)のことを語る

話を戻して、2月16日の戦いでは「大物北の横堤」で戦闘があり、雨が降って中断したとありましたが、おそらく相当な悪天候の中での合戦だったのではないかと思われます。
「続南行雑録」より、少し飛んで3月の風聞。
> 三月十六日、河内高屋城落畢、御曹司、同遊佐、越智請取落シ被申訖、当國一圓ニ越智進止也、武家一向ニ不及入部者也、六郎殿ハ、去二月十六日夜尼崎舟沈テ他界云々、未諸人六郎殿ヲ見ル者一人モ無之云々、
高屋城が落城して「御曹司」畠山稙長・遊佐氏から越智氏の手に渡り、大和も越智が支配するところとなったが、武家は入部に及んでいないとのこと。その理由としてでしょうか?澄元が実は先月の尼崎での戦いで溺死したという噂があったようです。なおこの史料によれば、この噂は実に、高国が三好之長を捕らえた5月1日に至るまで続いていたことも分かります。

しかし「細川両家記」によると、三好之長は2月27日にはすでに難波から京都へ向けて進軍しており、3月16日には澄元が神呪寺から伊丹城へと移ったとあります。
また、浜口先生の『在京大名細川京兆家の政治史的研究』によると、摂津から陣を引き払い京都に戻った翌日の2月17日、高国は「誘引申室町殿可落行云々、雖然室町殿無御招引」と将軍に同行を求めたものの拒否されています。(「元長卿記」2月17日条)
同時に、近衛尚通の日記「後法成寺関白記」永正17年2月20日条には、2月17日付で澄元から畠山式部少輔に宛てた以下のような書状案が引用されているそうです。
> 奉対上意連々無疎略之通、以赤松兵部令申候処、被達上聞由候条、至摂州令入国、爰元大略雖属本意候、公儀憚存不罷上候、此砌一途被仰出候者、毎事任上意可相働候、此事之次第急度御入魂憑入候、猶委曲荻野左衛門大夫可申候、恐々謹言、
これによると、以前より将軍の命令を疎かにはしないと赤松兵部(義村)を通じて上申していたこと、今度摂津を平定しても上洛しなかったのは将軍を憚ったためで、何事も将軍の命令に従うと申し出ていたようです。ただ、当然ながらこのような動きは表沙汰にはなっていなかったために、その後も2ヶ月余の間、澄元の死が噂され続けていたものと思われます。
そして、この書状をもって義稙は高国を見捨てて澄元との提携を選択したという見方がされていて、僕も以前はそのように捉えていたのですが、どうも断定するのは早計ではないかと思うようになりました。