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ホリィ(新人)のことを語る

脱線しますが、「細川両家記」の2月16日の尼崎・長洲での合戦では、大物北の横堤に高国方の香西与四郎が攻め寄せ、三好孫四郎と太刀打ちしてどちらも名を上げたが、日が暮れて雨も降ってきたので双方兵を引いた。高国は劣勢と見て各城に連絡して京都へ撤退したとあります。

「香西与四郎」は香西元長兄弟を代表する上香西氏には見えない名前で、晴元期に丹波で活動した香西元成が与四郎を名乗っていることからその父と見られているようです。この香西元成は讃岐での活動が見られないのですが、「香西記」が伝える下香西氏の系譜に元定-元成-元清とあるため、Wikipediaでは香西与四郎=元定としているようです。丹波の香西元成と讃岐の香西元成は別人との説もあり、僕としてはそれが妥当ではないかと考えます。

上香西氏を継いだのは、兄の波多野孫右衛門元清とともに高国京兆家の家老を務めた香西四郎左衛門尉元盛。後に内通の疑いによって殺害され、丹波勢の離反を招く切っ掛けとなった人物です。この人は御成記など確かな史料にも登場しています。
下香西氏については、「瓦林正頼記」には永正5年に高国が澄元から離反した際に高国を支持した人物として「香西又五郎国忠」の名が挙がっています。高国からの偏諱と思われますが、又五郎は三好政権期に下香西氏を率いた香西宗心が名乗った名前でもあります。
香西の伝承では元定が大内義興に従ったとされていますが、国忠と元定と宗心の関係は…?下香西氏の系譜もよく分かりません…。

三好孫四郎は之長の子の長則とされています。長則・長光兄弟はこの後も之長に従って上洛し、ともに高国に捉えられて処刑されることになります。また、長則の子が三好三人衆として有名な三好日向守長逸とされています。
三好一族には「孫○郎」がめちゃくちゃ多いです。当主の長慶が孫次郎、野口家を継いだ冬長が孫五郎、十河一存の実子で宗家を継いだ義継が孫六郎、笑巖こと康長が孫七郎、十河一存の子で松浦家を継いだのが孫八郎、多羅尾綱知の子で義継の後を継いで広島藩士となったのが孫九郎、芥川家を継いだのが孫十郎。時代はバラバラですが、三好家では一族の分家ごとに、孫○郎の仮名を名乗らせていたことが窺えます。
羽柴秀次は四国攻めに当たって三好康長に養子入りして「三好孫七郎」と名乗っていたので、「真田丸」でも「孫七郎」と呼ばれてましたね。