id:k-holy
ホリィ(新人)のことを語る

「続南行雑録」より2月5日の風聞。
この史料は「続々群書類従 第三 史伝部」所収、八木書店によると「水戸の儒臣佐々宗淳が元禄年間に奈良で採訪した春日若宮社司家代々の記録と寺社の由緒故事」とのこと。実は狙って読んだわけではなく、たまたま手に取って開くと見覚えのある名前の史料だったので読んでみると…まさしく、という感じでした。「祐維記抄」という名前で引用されていることも多いみたいです。
>二月五日、伝説云、津國コシ水ノ城、去三日夜落了、大将ハ河原林也、勢ハ不損云々、池田イタミ迄細川方ノ人勢悉以引退云々、

「細川両家記」によると、三好之長は更に陣を進め、2月16日に1万7千余で尼崎・長洲へ攻めかかって合戦、決着はつかず互いに兵を引きますが、高国は戦況の悪化を受けてその日のうちに京都へ撤退したとのこと。

「細川両家記」はこちらの記述から。ちょうどこの上洛戦に絞って「群書類従 合戦部」からの引用と訓読、解釈が併記されています。
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/tomatu/eisho16.html
個々人の活躍はともかく、戦況の推移については別史料で裏付けできる部分が多く、軍記であるにもかかわらず良質な史料として扱われてきた理由も分かる気がします。

「続南行雑録」より、高国勢敗退を受けて。
>十六日、酉刻、津國細川方陣破、細川方散々打死了、則細川右京大夫高国近江ヘ落行給云々、公方様ハ無殊儀京都ニ御座候也、六郎殿同三好ハ未津國在之
16日にはすでに高国が京都どころか近江まで落ちたこと、将軍は京都に健在であること、そして澄元と三好之長はまだ摂津にいることが伝えられています。ただ、京都の公卿たちの記録には高国が将軍に近江への同行を求めて拒否されたのは、2月17日とあります。あるいはこの史料は何日か経った後で当時の伝聞を記録したものでしょうか?

この史料ではその他にも、高屋城の「河内尾張殿御曹司」こと畠山次郎(稙長)とその被官の遊佐氏の動向として、「総州」こと畠山義英と越智氏率いる大和衆に攻撃されていることや、「尾州無合力」「筒井順興モ陣立無之」とあり、次郎の父・畠山卜山や筒井氏は支援できる状況ではなかったことが窺えます。(筒井氏は以前より義材派=尾州派)
また、赤沢朝経(宗益)・長経父子の後継者と思われる「赤澤新兵衛」も登場していて、「赤澤新兵衛ハ西国ニ在之、一圓ニ三好ニ令属、萬事令成敗之由」と、三好に従って四国から従軍していた?ことが記されていてます。その後も何度か「赤澤」の動向について記されており、大和の寺社にとってその名は災厄の象徴として記憶に刻まれていたのでしょう。