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ホリィ(新人)のことを語る

「細川両家記」によると永正17年正月10日、高国は越水城を救援すべく二万余で攻め寄せましたが、戦況を覆すには至っていません。
そんな状況の中、正月13日に今川修理太夫(氏親)に宛てた御内書案。
>就澄元摂州出張之儀。飛脚到来。尤神妙候也。
京都から遠く離れた駿河の今川家でも、澄元の上洛戦の様子が気にかけられていたのでしょうか。

その後、2月3日には越水城が開城したため、高国は尼崎・長洲まで陣を後退させました。
2月6日、佐々木中務少輔(京極高清?)に宛てた御内書案。
>京都忩劇之條。不移時日令参洛。抽忠節者可為神妙候也。
高国方の劣勢が伝わっていたのか京都は混乱していたようで、京極氏にも支援を要請しています。江南の六角氏が動かぬなら江北の京極氏に、ということでしょうか。義稙の焦りが伝わってくるようです。
義稙はこの時点でもまだ高国を見捨ててはいなかったのか、それとも…。

そして、2月8日に細川右京大夫(高国)に宛てた御内書案。
>越水城不慮之儀無心元候。雖然諸陣堅固之由可然候。勝利被待思食候。猶堯連可申候也。
義稙には越水城の開城の報が届いていたようですが、高国に対してはまだ勝利を期待していると伝えています。
「御使飯尾弾正忠」ともあり、飯尾弾正忠堯連が使者を務めたようです。
こちらによれば、飯尾堯連は永正5年から天文末年まで幕府奉行人を務めた人物のようですが、後の義稙出奔には同行していません。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~med-j/kenkyunotomo/bugyonin_frame.htm