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ホリィ(新人)のことを語る

第4章だけざっと読みました。天野忠幸先生の細川勝元がとても良かったです。
呉座先生の『応仁の乱』以来、細川勝元と山名宗全の決定的対立は文正の政変後で、嘉吉の変後に畠山持国が管領に復帰してから文正の政変あたりまで、細川氏と山名氏は共闘関係にあったというのは共通認識になってきたと思いますが、将軍義政が山名討伐を命じるたびに勝元は拒否して宗全を庇っていたことはあまり知られていないのが現状。
そこを一般の歴史好きに向けて整理して解説されているのが非常に心強いです。
これまで細川vs山名という文脈に沿って解釈されてきた事件が、今後覆されるんじゃないかと思ってましたが、個人的には長禄2年の赤松再興を「宗全の赦免と引き換えに」「承認せざるを得なかった」と明言されているのが良かった。
赤松再興を一貫して支持してきたのは、細川讃州家(持常→成之)と伊勢一族や季瓊真蘂を始めとする将軍側近グループであって、勝元は舅の宗全を庇いながらも、同族連合の長として讃州家との板挟み、あるいは幕政上のパートナーとして伊勢貞親との板挟みという立場。それが少年期に当主となってからずっと続いたわけです。
勝元と宗全は共に畠山家督問題では弥三郎→政長支持で、斯波家督問題では斯波義廉支持と一致していて、勝元は政長を支援、宗全は義廉を支援していたのに、文正の政変で調子に乗った宗全がそんな勝元の立場を蔑ろにして、畠山義就や大内政弘を上洛させたわけです。
これを天野先生は「義政の圧力から宗全をずっと守ってきた」勝元が「お払い箱にされてしまった」と説いていて、勝元の心情に寄り添ってる感じが良い。
そこからの勝元・政長による逆襲こそが応仁の大乱勃発の本質であって、舅の政治生命にとどめを刺すべく側近グループごと将軍義政を抱き込んだのが、いわゆる「東軍」と捉えています。
宗全が望んだのは圧倒的な兵力による無血クーデターで、勝元が望んだのは天皇と将軍を味方につけて西軍陣営を切り崩し、宗全を孤立させて政治的決着をつけること。
しかし、東軍と西軍がどちらも善戦したために、事態は両者の思惑のはるか遠くへ…最近は畠山義就がやたら注目されますが、応仁の乱の主役はやはり勝元と宗全であったと、断言したいです。
いつの間にか本の感想じゃなくなってる(笑)