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ホリィ(新人)のことを語る

さらに読み進めましたが、天野先生も一部論調がトーンダウンというか、三好足利対立視点だけではない印象を受ける箇所もありました。
(先生が見解を変えたわけではなく、僕の読み方や記憶への残り方が変わっただけかもしれませんが)

たとえば、永録元年末の和睦以後、義輝は三好氏が京都近郊で裁許を行った相論に介入せず三好政権に一定の自立性を認めていた例を挙げていることや、三好義興邸への将軍御成を「融和的な雰囲気が高まっていた」と評価し、また義輝と久秀の対立が表面化したのを永録5年の教興寺の戦い以後としていること。
そして、久秀による御前沙汰への介入についても、教興寺の戦い後に急速に緊張が高まったことから「対将軍外交を担った義興と久秀のうち、久秀は強硬派に転じていた」ためと説き、義興については「三好氏と将軍義輝の協調の要」と表するなど、将軍との融和関係を尊重していたと解される記述が見受けられます。
過去の論調では、三好宗家は反義輝で一貫していたかのような印象でしたが、久秀とは異なり、義興には義輝を蔑ろにする振る舞いが見当たらなかったのでしょうか。

一方、義輝が永録の変の直前、三好家の当主となった義継に修理大夫への任官を約束し、松永久通ともども偏諱を授けたことをもって、「幕府を支えてくれることを期待した」と評されている点も見逃せません。
つまり、教興寺の戦いに際して大覚寺義俊や一部の側近が敵方に内通したのも義輝自身の意志では無く、あくまで彼らの独断であったと仮定すれば、義輝は義興の急死を受けて三好家との今後の関係を不安視し、次の提携相手として上杉謙信に期待を掛けてはいたものの、この段階ではまだ幕政から三好家を排除する意志は無かったと解することもできるんじゃないかと。