(承前)
んで、恐怖感を背景にしているんだけど、その恐怖を共有しているだろう確信から共通の話題と成り得る確信があって、話題共有への期待から楽し気に「次は誰になるのかなー」と話をしてしまうのではないのかなと。
んで、そういう「共有への期待」とかで動く限り期待するのは足並みを揃えることばかりで、たとえば「何故首相の名前ぐらい知らなければ恥しいのか」と言うことから立ち返って社会を観察し、自分なりの意見を持つことはむしろ足並みを崩すことを予測してはばかってしまうといった感じかな。
うーん、日本型ファシズム、「バルス」とか「あけおめ」ツイート祭とかに根差してないかやっぱり。
(承前) ← これぐらいの意識レベルだとすると、例えば政権支持のアンケートなどでは単にその名を知っていると言うだけで「支持をする」と回答してしまう可能性が高くなる。
「知ってるー。総理大臣やってる人でしょー。よく知らないけど大変な仕事でしょうねー。頑張ってほしいですねー」
で「支持」に回答みたいな感じで。
しばしば政権支持率は単に認知率ではないかと言う指摘はされるんだけど、これが知らない人の場合、
「知らなーい。今の総理大臣なんですかー。よく知らないけど大変な仕事でしょうねー。頑張ってほしいですねー」
でやっぱり「支持」に回答ではなく、…[全文を見る]
今までどんな社会であってほしいいかとか、どんな政策が実現されてほしいかと言うことをほとんど口にしたことの無い両親が、次の首相は誰かと言うことばかりを言って気持ち悪い。社会や政治に興味が無いのならばいっそ無視をし続けた方が分かり易いのだが、首相と言うポストに付くアバターのスキンの色や形状と呼称だけは気になると言う感じで、これが何に由来するのかと言うのが皆目見当が付かない。
あー多分、「なんでそんな次は誰ってことにだけに興味あるの?」って聞いても「いや、どうでも良いけど」とかってろくな情報は得られないことは予測されるしな…
そもそも多くの人々の中では「世間」と「社会」が「本音」と「建前」に分化していると言う指摘は重要なのだが、ここで「本音」と「建前」とは何かと言うことを考えておくと、「建前」はしばしば「本音」を取り繕うもの、あるいは「本音」を隠すものと捉えられるわけだが、問題はなんでそんな面倒なことが為されると考えられているのかってことなんじゃないのかなと。
そういや自分が宗教というものを大嫌いになったのは、一般的に宗教色が強いと考えられる共同体の内部に入ったことがあるのだが、結局そこで生きる人々にとって宗教を自らに利益を誘導したいと言う本音を隠す…[全文を見る]
誰もが社会に責任ある個人であると言っても、そもそも責任の概念の理解、あるいは感覚のようなものが十分に普及しているとは言い難い。
その原因のひとつが責任と言う語が制度的にペナルティを負うべき可能性のある者として設定されていると言う場合と、先述のように「社会に責任ある個人」と言う場合と二つの意味を持たされた結果混同しやすく、場合によってはしばしば混同に乗じた詐欺が起きるのだから、そこにある誇り高き要素よりも呪われた要素が目立ち、穢れのように扱われてしまう。
戦争責任における「一億総懺悔」というのはまさしくペナルティを負うべき責任者達…[全文を見る]
(承前)
しかし、社会意識の希薄な人々が起こす社会問題と言うものはとても多いだろうし、そうだからこそ解決が困難だったりするな。
あと、個人個人の「ふつう」の行動が問題を強化していることに気付いたときに、それをやり続ける事に心苦しさを感じるかどうかってのはもはや信仰の構造の問題だったりするのかもしれんなとかも思ったり。
超自我の前に恥じるだろ普通とか思うんだけど、その超自我の側が既にアイヒマンってことだってあるよな。そんなもんだろ。うんざりするよ。(俺の中で「白日」がポイズン化してる)
この問題、結局のところ社会意識の欠落の側に問題が集約されるように思う。
差別概念の理解と言うのも、その概念自体が社会構造の問題である以上社会意識の欠落がそれを拒んでしまう。
仮にそれが本邦に際立つ問題だと言うのならば歴史的、構造的問題があると考えるのが適当だろうが、ナチス発祥って言う源泉徴収とか関係してませんかね?
まぁあの戦争には本邦では源泉徴収とか始まる前に雪崩れ込んで行ったわけで、他にも根っこはありそうなんだけどさ。
ああ、そういや雑草って必ずしも根っこを抜く必要なんてなくて、葉を刈り続けてたら栄養を与えられなくてやがて根も死ぬらしいんだけど、「根」って言葉が政策的に示唆するものもあるのかもしれない。