パリの楽師たち [たびの空]
パリに到着した直後、せっかくだからちょっと地下鉄で出かけるか、とシャトレ座の横辺りから地下に入り、延々と黄色ラインの方に向かったわけです。そしたら、さして広くもない地下通路の交差点のひとつに、コントラバス出し始めてるにーちゃんがいる。なんじゃいと思って眺めていると、どんどん弦楽器がやってきて、あっという間に10数名の弦楽合奏になっちゃった。おおおお、こいつら、まさかここで始めるのかぁ、と呆れてしばらく眺めていたが、楽器出して弄り始めたもののノンビリおしゃべりなどしていて、弾き出す感じはない。ああそうで…[全文を見る]
聖書 箴言 23:23
(『からすが池の魔女』より孫引き)
真理を買え、これを売ってはならない。知恵と教訓と悟りをも買え。
自分を「貴族」だと感じられる人間は、多分どんな目にあっても屈辱を感じないし、いくらでも身を落とすことができるのです。人生の階段を一歩ずつ苦労して昇った人間は、その分だけ落ちることの恥ずかしさを感じますが、生まれつき傲慢と誇りのお倉を持って生まれた人間は、かえって没落しながらその現象のほうを軽蔑することができたのでしょう。――山崎正和(『永井路子の日本史探訪』より)
勝利も敗北も、同じ太陽から発するそれぞれ異なった光線として、まじりあいもつれあっていた。わたしが馬蹄にかけるあのダキアの歩兵、また後に、乗馬が棒立ちになって互いの胸前を咬みあうような白兵戦のさなかに落馬したあのサルマティア人の騎兵、彼らと自分を同一視したからこそいっそうやすやすとわたしは彼らを撃ち倒したのであった。
マルグリット・ユルスナール著、多田智満子訳『ハドリアヌス帝の回想』(ユルスナール・セレクション1)白水社、2001年、p63。
真の生誕の地は、人がはじめて己れ自身に知的な一瞥を向けた場所である。その意味でわたしの最初の故郷は書物であった。
マルグリット・ユルスナール著、多田智満子訳『ハドリアヌス帝の回想』(ユルスナール・セレクション1)白水社、2001年、p41。
私が専門にしている古代中世絵画史の分野では、なかなかセクシュアリティについて取りあげることは難しい。それなのに、どうしてこの問題に関心を持つかというと、私自身、女であることに疑問を感じながら生きてきたからである。小さい頃から女の子とうまく遊べす、今でも女の集団は苦手だ。それなのに、女子大にいるのが不思議だが(笑)。私はそれを、性自認が男だからではないかと思っていた時期もあったのだが、こうして大学の教員という職を得てみると、性自認の問題ではなく、女としての社会的な生き難さだったのだということがわかる。性自認は女で、ヘテロだが、そ…[全文を見る]
「確かに、日本では、様々な年中行事が混在しているが、伝統的なイベントは家族向けであるのに対し、クリスマスやバレンタインなど、恋人向けのイベントは、キリスト教絡み、あるいはヨーロッパ的なものだ。」
五十嵐太郎『結婚式教会の誕生』春秋社、2007、p28。
森が飛ぶように、青年に近づいていった。
「飯、ちゃんと食うとるか? 風呂入らなあかんで。爪と髪切りや、歯も時々磨き」
機関銃のような師匠の命令が次々と飛んだ。
髪も髭も伸び放題、風呂も入らん、歯も滅多に磨かない師匠は「手出し」と次の命令を下す。青年はおずおずと森に向けて手を差し伸べた。その手を森はやさしくさすりはじめた。そして「まあまあやなあ」と言った。すると、青年は何も言わずにもう一方の手を差し出すのだった。
大阪の凍りつくような、真冬の公園で私は息をのむような気持ちでその光景を見ていた。それは、人間というよりもむしろ犬…[全文を見る]