内田「コピーライトがうるさく言われ始めたのは80年代からなのかな。ミュージシャンや音楽を愛さない人間が音楽ビジネスを仕切り始めて、状況がガラッと変わってしまった。たとえば著作物に歌詞を引用する場合、いちいちJASRACに許可を得なければなりませんよね。 すると人は手続きが面倒だから語ることをやめてしまう。語られる機会を失った文化が発展していくとは思えません」
贈与とお布施とグローバル資本主義 鼎談:内田樹×釈徹宗×後藤正文
/勝手に引用
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内田「コピーライトがうるさく言われ始めたのは80年代からなのかな。ミュージシャンや音楽を愛さない人間が音楽ビジネスを仕切り始めて、状況がガラッと変わってしまった。たとえば著作物に歌詞を引用する場合、いちいちJASRACに許可を得なければなりませんよね。 すると人は手続きが面倒だから語ることをやめてしまう。語られる機会を失った文化が発展していくとは思えません」
贈与とお布施とグローバル資本主義 鼎談:内田樹×釈徹宗×後藤正文
戦後民主主義を代表する政治学者丸山眞男の研究室を全共闘が封鎖した時、丸山眞男がこんな暴挙はナチスもやらなかったと言ったのは有名な話だ。ぼくたちは、その話を戦後民主主義の知識人は、いざ問題が自分におよんでくるとうろたえるという話として受け取った。たぶんぼくらは三島由紀夫のなかに戦後民主主義的知識人や大学当局がもたない誠実さを見ていたのだ。
『思想としての全共闘世代』小阪修平
村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来あがったものです。カート・ヴォネガットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでゐる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出さうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでせう。
丸谷才一 昭和54年 第二十二回群像新人文学賞「風の歌を聴け」選評
現代中国で村上春樹は圧倒的な人気を誇っているが、それを、「現代中国の若者の孤独感や喪失感と共鳴するから」というふうに説明するのは、ほんとうは本末転倒なのである。そうではなくて、現代中国の読者たちは、村上春樹を読むことで、彼らの固有の「孤独感や喪失感」を作り出したのである。
「それまで名前がなかった経験」が物語を読んだことを通じて名前を獲得したのではない。物語を読んだことを通じて、「『それまで名前がなかった経験』が私にはあった」という記憶そのものが作り上げられたのである。
「もういちど村上春樹にご用心」内田樹
柴田「内田さんも大学にいらっしゃるからお分かりでしょうけど、要するに学生運動でバリケードの中を
仕切っていた人たちが、今大学を仕切っているじゃないですか。」
内田「ふふふ。」
柴田「原理がなんだろうと、世の中には仕切るやつと仕切られるやつがいるんだなってつくづく思うなあ。」
内田「簡単に言ったらそういうことですよね(笑)。」
「もういちど村上春樹にご用心」内田樹
自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。
「夢十夜」夏目漱石
ロゼのコーヒー・ハウスの宣伝文句には、問題解決の鍵となる言葉が記されている。「公に(publiquely)」という言葉である。ここでいう「公に」とは何のことなのか。スチュアート朝の宮廷にコーヒー・ドリンクなる飲み物を献上するという意味でもなければ、庶民の飲むコーヒーをお上が公費で面倒を見てくれるという意味でもない。ロンドンには新種の公的世界ができ上がりつつあった。市民的公共性の世界、市民社会である。
コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液 中公新書 by 臼井隆一郎
今日に残されたおそらくは最古のコーヒーの歌も、十七世紀、イエメンのユダヤ人商人の間で歌われた『コーヒーとカート』という、アラビア文字で記されたヘブライ語の歌である。ちなみにボブ・ディランも『ワン・モア・カップ・オヴ・コフィ』で、旅立ちの前に飲む一杯のコーヒーをイスラエル旋律を思わせる節廻しで歌っている。アメリカ、ミネソタ州にユダヤ人商人の息子として生まれたロバート・アレン・ジンマーマン(本名)の血には、ことコーヒーを歌う以上は「嘆きの壁」を前にした祈りのような旋律に乗せなければ気がすまない何かが流れ続けているかのようである。
コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液 中公新書 by 臼井隆一郎
高橋:宮崎さん、ある時期から破綻するようになったでしょ。僕、破綻するようになってからが大好きで(笑)。つまり、もうコントロールしてないんだよね。芸術作品の自由って・・・・自由には責任が伴うとかさ、自由は完全にコントロールしなきゃいけないとかいわれるけど、作る人間だってある種投げやりに「もうどうでもいいや」と思える瞬間もあって。本当にすごいものは、そういう投げやりなところがあるものなんじゃないかと思っているんです。
高橋源一郎 Cut (カット) 2013年 11月号 宮崎駿特集
われわれは自分の経験によるショック──いわゆるトラウマ──に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。そこで特定の経験を将来の人生のための基礎と考える時、おそらく何らかの過ちをしているのである。意味は状況によって決定されるのではない。われわれが、状況に与える意味によって自らを決定するのである。
アドラー 人生を生き抜く心理学 (NHKブックス) (Japanese Edition) by 岸見 一郎
新たな日本のロックの文体を作りつつある破格の新人バンド。 音楽関係のメディアに関わっていて、仕事としてのおもしろさを感じることがいくつかあるが、「これは!」と思える新人グループに出会った時の喜びもその中の大きなもののひとつである。 しかもそれが、まだ世間で知られていない新人だと、思わずほくそえんだりしてしまう。 (中略) さてそこでエレファントカシマシだが、これは僕にとって年に一度、あるいは数年に一度といっていいくらいの出会いの感動を与えてくれたグループである。 まず、今までの日本のロックにない文体を持った言葉の感覚に驚いたし、それを…[全文を見る]
「その公正にってのがさ、いつの間にか相対的なものに擦り替わってね?あんたさ、その裁判しくじったのが悔しいだけじゃねえの?裁判官って、そんなマスコミとか馬鹿夫婦の演技とかに左右されるようなちょろいもんじゃねーだろ?厳しいんだろ?かなり偉いんじゃねーの?判決ってのはさ、そんな世間とかいう訳わかんねーもんの所為でコロコロ変わるもんなのか?そんなだらしねえものに裁かれてる訳か?俺ら」
『死ねばいいのに』(京極夏彦/講談社文庫)
「事実関係に関する供述は兎も角、自白に証拠性はないと僕は思うがね。動機は後から訊かれて考えるものなんだ。その時点で犯罪者は傍観者と同じ立場になってしまっている。自分がまず日常に帰るために、いかに自分で自分を納得させ得る理由を見出すか、必死で考えるんだ。それが動機だ。それが真実なのかそうでないのかは第三者に判らないだけでなく、本人にだって判りはしない。そんなものをあれこれ詮議するのは無駄なことだし、訳知り顔で解説することなど愚の骨頂と思わんか?」
「魍魎の匣」京極夏彦
それと、大人であることの条件に関連することですが、最近思っているのは、人間には裏があってしかるべきなのに、いつから裏を認めなくなったのかということですね。つまり、理想と現実、経済の話もそうですが、ブレていることを重要視したいわけですよ。自分と世の中との間には当然ギャップがあり、そこを持ちこたえて、ブレるというのが人間のあり方だと思うんですが、いつの間にか世の中に対応して生きるのが人間であって、それの背後にある裏はないようにしようとなった。それは、現実の中で自分を持ちこたえる能力がなくなってしまったからかもしれないですね。
『atプラス04』2010年5月「橋本治vs山形浩生対談」
“君はまだ神は一つでなきゃいけないと思ってるんだな。まあ、それは認めてもいい。しかし、唯一絶対のあり方は様々なんだ。同じアッラーの神を崇拝しようとも、神の言葉の解釈によって、アッラーの存在も変わってしまうだろう。にもかかわらず、アッラーは唯一絶対だというのなら、こういうことになるな。神は変幻自在である、と。人間の解釈によって神が変わるのか、神が変わるのか。神自身が人間の思惑を超えて勝手に変わるのか、そんなことは考えてみても始まらない。これだけは確かだ。神は複数であると同時に単数なのだ。神が一つだなんて、神をそんなに単純に考えるな。神は絶えず自らを模造し、何かになり変わっているのだ。神には親も兄弟もないし、生死もない。けれども、人間の理解力に応じて分身を作ったり、人間そっくりの姿で恋愛をしたり、喧嘩をしたり、生まれたり死んだりして人間をからかい、人間と遊んでいる。”
「預言者の名前」島田雅彦
時間と場所を書くようになった副産物のようなものもある。それは記憶がとても明確になったということだ。時間も場所も日記に書かなければと思っていると、たえず意識する。それまでは漠然と「あの通りにある喫茶店」くらいにしか記憶していなかったのが、「一乗寺木ノ本町の喫茶からふね屋」というように、記憶がより具体的になっていったのだ。記憶が具体的になっているということは、観察力がついてきているということでもある。つまり、書くべきだと思っているから、覚えているし、発見するのである。
『日記の魔力』表 三郎
時としてごく稀に、歓ばしい昂揚された瞬間が無いでもなかった。生とは、黒洞々たる無限の時間と空間との間を劈いて奔る閃光と思われ、周囲の闇が暗ければ暗いだけ、また閃く瞬間が短かければ短かいだけ、その光の美しさ・貴さは加わるのだ、と真実そのように信じられることも、時としてある。しかし、変転しやすい彼の気持は次の瞬間にはたちまち苦い幻滅の底に落ち込み、ふだんより一層惨めなあじきなさの中に自らを見出すのが常である。だから、しまいには、そうした精神の昂揚の最中に在ってすら、後の幻滅の苦々しさを警戒して、現在の快い歓びをも抑え殺そうと力めるようにさえなったのだ。
中島敦 狼疾記
誤解を恐れずにいうなら、わたしには、この国の政治が、パートナーに暴力をふるう、いわゆるDVの加害者に酷似しつつあるように思える。彼らは、パートナーを「力」で支配し、経済的な自立を邪魔し、それにもかかわらず自らを「愛する」よう命令するのである。(高橋源一郎)
「コンスタンティヌスはやり手の実業家だったのだよ。キリスト教がのぼり調子だと見るや、単に勝ち馬に賭けたわけだ。コンスタンティヌスが太陽崇拝の異教徒をキリスト教へ改宗させた鮮やかな手並みに、いまも歴史学者たちは舌を巻いている。異教の象徴や暦や儀式を、キリスト教の発展途上の伝統と融合させ、双方が受け入れやすい、いわば混血の宗教を創り出した」
「ダ・ヴィンチ・コード」ダン・ブラウン
彼があくまで誠実で自己をあざむかずにいられるもの、いわば彼の生活の核心をなしているものは、残らず人目を避けて行なわれる一方、彼が上辺を偽る方便、真実を隠そうがために引っかぶる仮面――例えば彼の銀行勤めだの、クラブの論争だの、例の『低級な人種』という警句だの、細君同伴の祝宴めぐりだのといったものは、残らずみんな公然なのだった。で彼は己れを以て他人を測って、目に見えるものは信用せず、人には誰にも、あたかも夜のとばりに蔽われるように秘密のとばりに蔽われて、その人の本当の、最も興味ある生活が営まれているのだと常々考えていた。各人の私生活というものは秘密のおかげで保っているのだが、恐らく一つにはそのせいもあって教養人があれほど神経質に、私行上の秘密を尊重しろと騒ぎ立てるのだろう。
「犬を連れた奥さん」チェーホフ