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花うさぎのことを語る

  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」10-----
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     いま海外のホテルの一室でこれをかいている。実をいえば毎晩少しずつ書き溜めてきた。あの日いつもの倍の荷物をみた瞬間、嫌な予感に血の気が引いた。あいつは何食わぬ顔で搭乗チケットとパスポートをさしだした。高いところは死んでも嫌だと言っておいたはずだと囁いたが無駄だった。あたしのために命くらい賭けてよと微笑まれた。そうまでせがまれて昨夜あれだけ睦み合ったあとに尻尾を巻いて逃げ出せるはずもない。

     はじめて海外公演を観た。海を背にした野外劇場に直線裁ちの…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」9-----
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     己はいちばん大事なことを妻に言わなかった。そして言わなくていいことを口にした。まさかそれがあんなにあいつを縛り追いつめるものだとは考えもせず。
     それだけならまだしも。
     あいつにそんなにまで想われていたとは気づかなかった。己は家を出るための理由にすればいいと申し込んだ。周囲に文句は言わせない、己ならそれが出来ると。しばらく考えさせてほしいと言われたがそれから毎週押しかけた。嫌な顔をしなかったので家にもあがった。その間どこかでこの関係が長続きするは…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」8-----
  •  ようやく立ちあがった己へときみは帽子がよく似合うねと微笑んだ。やけに悠長なものいいだった。わけがわからなかった。しかたなくはなしの流れを遡ってみることにした。
     大戦前後の夢使いへの苛烈な差別、戦中の強制労働といったあれこれを爺はすすんで話すことはなかった。むろん常識の範囲では教えられた。だが当事者として語ったわけではない。容易に口に出せることでもなかっただろう。田舎には来ないと言ったが大学をはなれる前にどうにかして爺と引き合わせるべきではないかと考え…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」7-----
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     そしてふと気づいた。視界の静寂の兆しを。風はあった。葉のそよぎも。だがそれらが撓むようにして凝り静止した。背後にあるはずの幾つもの靴音、話し声、そうしたものどもをたぐりよせようと抵抗したが無駄だった。

     きみはわたしを恐れなかった。わたしがひとを殺すことをなんとも思っていないのに。

     頤をあげてまっすぐにこちらをみていた。
     己は知っていた。そして恐れた。正直にそう口にしたとたん、あの男はわらった。

     まあいい。べつにそんなはなしをしたいわけじゃな…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」6----- 
  •  あれは七月のことだった。短い梅雨に水不足が懸念され猛暑らしい日差しが照りつけていた。にもかかわらず呼び出しは常に戸外でその不満を漏らしていたころだ。
     会話を盗み聞きされたくないのだとは察していた。己たちは夢使いのはなしばかりした。その歴史や伎について互いの知識と経験を共有した。それらを附きあわせてみると夢使いを一概に流浪の民とするのは実情に合わないことや得意分野に地域差がある様相があらわになった。

     それらは書きとめなかった。互いに予感があった。い…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」5----- 
  •  あの男と一緒に過ごした日々を鮮烈に覚えている。そう記して己は首をかたむけた。よくよく思い出してみなくとも一緒にいたのはたいして長い時間ではなかった。はたして若かったからだろうか。昨日のことのようにとまでいうと大袈裟だが、少なくとも何事もぼんやりとした輪郭をまとうほど鈍くなった近頃とはやはり違った。

     ごくたまに呼び出しの場に当の相手の姿のないことがあった。そういうときは置き去りにされた取り巻きどもが聞きもしないのにさっき誰其と出て行ったと説明し憫笑…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」4----- 
  •  随分と浅ましいことを書いた。だが恐らく己の弟子はこうした件は教えられまい。魘をあれほど見事に扱いながら溺れない。強靭なのだ。あの剛胆さゆえに魘を恐れずに触れることができる。おそれれば捕りこまれる。彼はそれをよく知悉している。

     夢使いは碌な死に方をしないといわれるがそのとおり爺の祖父は魘に囚われて狂死した。遡ればまだいるだろう。爺はそれを恐れていた。一夜限りの関係を好んだのもきっとそのせいだ。

     弟子の依頼人はその当初から今に至るまで成人だけだ。自…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」3----- 
  •  妙な縁というものがある。
     むかし戯れに弟子にはなした。己の爺に並ぶほどの夢使いが北の地にいると。それがあの男だ。都会と違い地方には夢見の儀式が多く残っている。なかでも北は格別に、それゆえに優れた夢使いを輩出する。そんなはなしをしたときのことだった。
     あの男は北の出身ではないが、経緯はどうあれ結果的にはあの土地に望まれたのだと考えている。
     弟子の恋人にあの男のはなしをしたことはない。だが双方それとなく了解している。己は彼が調べた夢使いの資料とその出…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」2----- 
  •  読み返してみたがどうにもまとまりがない。これを読む相手に己の言いたいことが伝わるだろうかと柄にもなく心配になるが他に書きようがないのだ。
     夢使いとして語るとき常に相手が目の前にいる。その反応をうかがい、確かめながらはなす。だがこれはそういうわけにはいかない。そもそもこれを記すきっかけは己の妻にあるのだが本人はこれを読むことはない。

     彼女は海外で仕事をしている。彼女などと書くといかにも白々しい。よそいきの顔をつくるのもなんなのであらためる。あいつは…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部「視界樹の枝先を揺らす」1----- 
  •  何をどう話せば死者について語り得るのかを己は知らない。なにしろあの男が死んだことすらも随分後から知った。友人とも呼べない仲だった。せいぜい大学の先輩と後輩、その程度だ。
     そうだ。大学のはなしをすればいい。まずは始まりの四月……。

     長髪を靡かせて前をいく男が「夢使い」であるのは察していた。己(おれ)も夢使いだ。まだ正式に夢秤を手にしていたわけではなかったが、そのくらいのことはわかった。互いにそれは了解していたはずだ。あの男は桜並木のしたを悠々と、人波…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢でさえ、なくていい」5------
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     このひとは、このところようやく背骨のしたに指をくぐらせることを許してくれるようになった。ただ何も言わないで触れていたときは嫌がった。おれとこうなるまでは女性しか知らないひとだ。無理もないと思いながらも諦めきれず、おれの口に吐き出して弛緩しきったすきを狙ってまさぐった。すぐ怒鳴られた。顔を蹴られそうになったこともある。つまりおれは懲りずにくりかえした。

     あるときとうとう我慢できずひとつになりたいとせがみ繋がりたいとねだったおれに、このひとは顔色…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢でさえ、なくていい」4------

  • デパートでなく、コンビニが好きだとあのひとはいつも口にしていた。好きなものを誰をも気にせず買えるからと。街には万屋(よろずや)というべきものしかなく、外商部という存在を当時のおれは知らなかった。そもそも百貨店という場所に行ったのでさえ、小学校にあがってからだ。

     あるとき高校を中退したと話したこのひとは、何かを羞じ、それが酷く重大事のような顔をしていた。おれはまるで気にとめなかった。おれの生まれたところでは大学に進学する人間のほうが稀だったから。それ…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢でさえ、なくていい」3------
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     おれが六つのとき、すでにあのひとはあの土地で確固たる地位を築いていた。若く、並外れた技量があり、抗いようのない不可思議な魅力があった。だれもが認める美男ではなかったが、あのひとが道を歩くとみなが足をとめて眺めた。昔話の笛吹きのように、こどもはその後を走って追った。おれは追わなかった。あの手がほかの子の頭を撫でるのを遠くに見ていた。
     叔父の妻がまずその魅力に篭絡された。おれがはじめて男女の営みを垣間見たのは、あのふたりのそれだった。女優崩れのおば…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢でさえ、なくていい」2------
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     はじめは、毅然としているひとだと思った。じっさい生真面目で堅苦しいところもある。休憩時間以外の無駄話はしない。陳列棚の乱れは誰よりも早く気づきすぐ直す。しかも自宅でたとえひとりでいても、きちんと正座して食事をとる。それを見て、おれはじぶんの身仕舞いのだらしなさ、心得のなさを本気で恥じた。このひとは師匠の御宅に世話になったせいだとこたえたが、それだけとは思えない。だいいち足音をたてずに歩く。いつでも背筋がのびている。忘れ物をしたのを見たことがない…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢でさえ、なくていい」1------
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     長い黒髪が乱れて枕に散っている。見事に波打ったシーツを腹の下に感じ、まさに情事の翌日といった風情なことに、おれはとうとう声を押し殺してわらった。このひとと暮らしはじめて数か月たって、ちかごろようやくこういう姿を見ることができるようになった。つまり、ふだん眠りのとても浅いひとが、おれの隣で安らかに寝息をたてている。いとおしいという感情の熱をおれは長らく忘れていた。いや、知らなかった。

     このひとは「仕事」のあと疲れきっているせいか気が昂ぶっている…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢も見ない」8------
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     彼女は明らかに呆れ声だった。はなしの噛み合わなさに途方に暮れているみたいだ。いっぽうおれは笑いを噛み殺すのに苦労した。このひとのこの調子に、おれだってどれほど悩まされたことか。
     そんなわけで電話の向こうでは彼女がまだ何か説明しようと躍起になっていたけれど、このひとはそれを押しとどめるべく諭すような声でつづけた。

     にんげん疲れてるとろくなこと考えないよ。とにかく休むといい。遠く離れていても君の処に届くよう、君のためにとっておきの香音(かね)を鳴らすよう努…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢も見ない」7------
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     眠らないよう互いに気をつけていたはずがうとうとしていたようだ。メールの着信音で飛び起きたのはふたり同時だった。彼はそれを目にし、あーと呻いて長い髪をかきあげた。どうやら師匠は家にいなかったらしい。彼は頭を振りながらむずかしい顔をして電話をかけていた。おれはその背中にぺたりと頬をおしあてた。興味本位なだけでなく、やはり気にはなった。彼女なら、いっそゴシップ記事でも読むように盗み聞きされたほうが清々しいというかもしれない。おれのみっともない「優越感」を察知す…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢も見ない」6------
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     師匠はもとより、大先生の顧客は一見さんが多かった。

     はなしがどこにどう繋がるのかわからずに、おれは首をかしげた。すると、彼はおれの手に顔を寄せたまま口にした。

     彼らには香景が視える。それを聞く。道を歩いていて、香音の残り香を聞いて声をかける。または魘の残響に夢を要らないかと問う。相手はほぼ断らない。

     それを世間で何と呼ぶか、知っている。あの師匠も写真でみたその祖父もとびきりの美男というのではないが、ともに押し出しのいい男だった。あの調子でやさしく声…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢も見ない」5------
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      師匠はどんなに遅くなっても俺の淹れたお茶をのんでから自室にさがった。きゅうな用事で外食しようと食事が用意してあれば絶対に残さず平らげた。寝ていていいと言われても、だから俺は起きていた。
     親が死んで、師匠が俺を引き取ると言ってくれたときは心の底から嬉しかった。俺は七つの頃から師匠に憧れてたし、その当時からお宅に出入りしていた。じぶんの家のような普通の一軒家とちがう立派なお屋敷で、そのころはとても賑やかだった。師匠のおじいさん、つまり大先生(おおせんせい)…[全文を見る]

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  • ---『夢のように、おりてくるもの』 第三部 「夢も見ない」4------
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     電話の着信音で、おれより長風呂の彼があわてて浴室から出てきた。こういうとき素裸を期待しても無駄だ。床を濡らさないようタオルで濡れ髪をくるみながらも下だけはきちんとパジャマを穿いている。夏の盛りだ。風邪をひく心配はないのだからこんなときくらい隙をみせてくれてもいいのにと思わなくもない。一緒に暮らしはじめてもう数か月たつというのにあまりにガードが固すぎる。おれだって、なにもこのひとにパンツ一枚で家のなかを歩いてほしいとは願わないが同居人の役得くらいあっていい…[全文を見る]