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日本語のことを語る

ちょっと前の話題ですが X.com から。

「なぜブラックジャックは医者が“いる”という代わりに“ある”を使っているのか?」という投稿をされたこの方はインドネシアの出身らしい。「いる」=人や有生物の存在、「ある」=無生物の存在、というように教わったものと推察します。

結論から言うと、このような使い分けが確立されたのはそう古いことではなく、昭和後期の大人はまだ「人がある」のような言い方をふつうに使うことがあったので、ブラックジャックの台詞は「何のために医者という人が存在するのか」という意味に取って差し支えないと思われます(「何のために医者という職業があるのか」ではなく)。

「いる(<ゐる)」は古語では、具体的な意味で、人がある所にとどまった状態になる、住む、座るといったこと。単に存在するという意味では「あり」が使われ、「人あり(=人がある)」のような言い方をした。古代後期から中世にかけて、「ゐる」の意味が抽象化されて、単に人が存在することを言う方向への変化が起こり、「あり」の領域に近付き、重なってくる。並行して助動詞としての「あり」も「ゐる」で置き換える動きが起きて、現代語の「何々している」のような言い方が出来てきます。

この変化はゆっくりと長い時間をかけて続いていて、有生物と無生物に使い分けるということがかなりはっきりとしたのが二十世紀後半ということになると思うのだけれども、先に述べたように「人あり」式の「人がある」のような表現もまだ使われていた。このことは当時の出版物をいくらか読むとわかります。

それで、「いる」=有生物の存在、「ある」=無生物の存在、というふうに憶えると、とりあえず現状では問題ない言い方ができるということになるのだが、教育は必ずしも真理ではなく、少し古い文でも読むときには認識を変える必要のある場合も出てくるという例なのです。

さらに言うと、近年では「机の上に鉛筆がいる」のような言い方を特別な意図なくしたと思われる例も目にするので、「いる」=有生物、「ある」=無生物、という分け方が動かしがたいものだと信じていると、それで「年齢が分かる」と言われるようになるかも‥。