「人は分かり合える」論者はいずれ「俺と分かり合えないお前は人間じゃない」に行き着くよ
そうでもないんじゃないかな。「相手も人間だ」ってのは書き換え不可能だし。
その大原則に対して思い上がる様な特殊な人間で無い限り行き着かないよ。
「相手のことを理解できてない」and「相手に自分を理解させれていない」と考えるしかない。
「理解する気がない酷いやつだ」てのには行き着くけど、それは「人間ではない」ってことじゃないよね。
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「人は分かり合える」論者はいずれ「俺と分かり合えないお前は人間じゃない」に行き着くよ
そうでもないんじゃないかな。「相手も人間だ」ってのは書き換え不可能だし。
その大原則に対して思い上がる様な特殊な人間で無い限り行き着かないよ。
「相手のことを理解できてない」and「相手に自分を理解させれていない」と考えるしかない。
「理解する気がない酷いやつだ」てのには行き着くけど、それは「人間ではない」ってことじゃないよね。
ゲーム作成者が設定したゲームの目的をクリアしていこうとすれば、アイテムが溜まり過ぎるような事もあまりないはず。
しかしその主目的にあまりキョーミがなく、ちょっと違った遊び方を提案したり説明したりすると周りから白い目で見られる。そんな事は子供の頃から何度も経験してきた。
どっちでもいいじゃんね、と思う。
ある人がその人の範囲に置いて如何様であろうと、その人の範囲であれば。視界に入るだけで嫌悪感を抱かないでも。
ズレはしょうがないこと。無理にズレようとしてるわけじゃないし、ズレに快感を覚えているわけでもない。
まぁ、ズレてるのは俺の方である可能性も往々にしてあるのだけど(良くあることである)、これはあんまりズレてて欲しくないなぁ。
ISISでもオウム教団でも何でも、カルティックな輩が主張する理想がどういうものであるのか解析する事は重要。
それらの主張のレベルを1段、あるいは数段下げたものは、防ぎ難く発生してくるからである(レベルによっては実現に問題ないものとなる可能性もある)。
それらの研究は、我々一般が思索を巡らすより、高い知性を持った学術者が行うのが望ましいだろう。
彼らの理想の「コア」が如何にして穏健と乖離し、暴力性と結びつくのか。
共存
まぁそう言う私自身が他ならぬ何者でもない1人であり、「平和国家の一員」であると言う共同幻想から抜けれはしない訳ですが。
まぁ、それでも平和であるだけマシだと思ってる。平和国家とは何か、と言えば、国家間の紛争の解決のために、「相手を殺す」と言う手段を用いない国であることです。そうでない自称平和国家は口だけ。
国家元首は、基本的に強いふりをし続けなきゃならない、ってのはある。
どの国でもある程度はそうだ。
そんな中、天皇と言う国家に対して何の権力も持たないのに、国家元首より上とすらされる存在が、世界に向けて平和を希求するメッセージを発することができる日本は、なんと恵まれた国なのだろう。
やはりこの国は平和国家を目指すべきだ。
この時代、日本人の多くは経済的に成功してるとは言い難く、
頑張っても頑張っても、何者でもない自分、と向き合わざるを得ない。
自分が何者でもない事が変えられずそれに耐えきれないと、次に何を望むかと言うと、大きかったり強かったり美しかったりする何かの一部である事を望み出す。
ある人はスポーツチームをサポートすることで勝利の一翼を担った気になりたがるし、ある人は芸能人に入れあげる。
そしてある者は、日本と言う国家を絶対視し、国家の「強さ」を求める様になる。小さい島一つが他国の支配下にあったりちょっかい出されるだけで沸点超えて武力行使を叫…[全文を見る]
韓国で戦前の日本人街が復元され、そこを和装して歩くとかいうのが観光資源として成立している、ってニュースを見ると気持ちが明るくなるね。
浦項市の九龍浦(クリョンポ)。
まぁ、反対する人々もいた様だが。
分かりあい認め合う道を求めるのでなければ、蔑んで傷つけ合う道を進むのか、って話だよ。
まったく、どの様に考えてるかは理解できても何故その様な考え方をチョイスするのか理解し難いコスト計算のおかしな方々がいる。
「感覚的に正しい」の裏側には「理論的に正しい」が眠っている。
純粋に感覚のみで正しい、ってのはまず無くて、他者に説明でき、他者と共有できる「何故それが正しいのかの理論・言葉」がある。
その言葉を紡ぎ出すのは時に非常に困難であることもあるけど、時と場所を隔てた人々と共有できるのは言葉しかないのだ。疎かにはできないししたくもない。
共感よりも解析が欲しいのだし、
共感よりも解析された方が喜ばれるだろう、
と言う一般からかけ離れていて、かつ不快にもさせてしまう観点を、
どうにか変えよう、少なくとも両方持てるように成ろうと、
変わっては来たつもりだが、それが空転している時がある。
子供がいる親とか身内の介護や看病をしている人が時々遊びに行ったりする事すら「不謹慎」と言い立てる人々、
って、会社で言われてることをそのまんま一般社会に返してる気がするのですね。
悪しき全力主義と言うか。言うなれば真面目過ぎるのですよ、日本的ではありますね。真面目さが毒の刃になってる。
「過ぎたるは及ばざるが如し」と言う簡単な話。と思うのですが中々受け入れられませんね。
全体のために個人が我慢をする。
それは効率の良い社会ではある。
しかし、それを法で強制してはブレーキを失う。
「自分の生き方はこれで良いのか」なんて原始的な悩みは、自分の生き方をどうしようもできない中学生、せめて高校生までに到達するべき。
だからこそ、哲学や倫理学を早めに必須にしよう。
「道徳」と違うのは、「これが正解ですよ」って教えるんじゃなくて、「世の中にはこれだけ多数の正解がありますよ、どれを選びますか?」って教えること。
若者は容易く「殺害せよ、それこそが正義」って思ってしまいがちなんだよね。
俺だって通過はしたもの。
そう言う意味では倫理学とか必須にすべきだと思うのですよ。
ニーチェとキルケゴールが見開きの左と右に同時に書いてあってみなよ、「ああ、どっちでも良いんだな」って学ぶぜ。
それが、人間のキャパシティーの限界だったのかも知れない、
CGに於ける「不気味の谷」みたいな、今、意見の違いが気持ち悪い状態。
メディアとネットのさらなる発展でこの谷を越えられるといいけど。
思わずメインアカウントでpostしてしまったが。
それにしてもメディアやネットの発達によって、色々な人色々な価値観色々な考え方がある事がどんどん分かるようになってきた中で、
「同じ人間の中に色々ある」って考えるのではなくて、違う意見に耳を塞ぎ敵視し争いへの道を進む人達が増えてきたのは全く意外なことだったよなー。
「暴力を以って弱者を虐げない唯一の強国」それがジャパン・ブランドだし、
それこそが平和な世界への橋頭堡、スタート地点となるだろうと確信する。
政府にはそのラインを目指して欲しいし、それによる国際的信頼低下や経済的損失は我慢する。
と言うか、長期的には平和路線の方が国際的にも経済的にもずっとお得だと思うけどね。
ルサンチマンとインターネットと武器と金と死ぬことを褒め称える宗教。
宗教テロルはしばらく世界から消えてはくれない。
それに対抗するに武力を最前面に出していては平和の持続は来ない。
「役に立たないものの方が楽しい」
って言葉があるそうだが、
楽しいのならそれは「役に立ってる」と言うこと。
だが、楽しいことを役に立ってると感じられない人も意外な程に多いから、そう言わなくてはならない気持ちもよく分かる。