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自分(id:Kodakana)のことを語る

秦は戦国時代から脱却するための装置として法家を採用して一気に拡大させるわけですが、その失敗の後を受けた漢は法秩序を飲み込みやすくする味付けとして儒教を利用します。国家に採用された儒教は権力体を維持するために身分制度を擁護する機能を担った面はあるわけですが、では身分制度が儒教の本質なのでしょうか。

「天下」という言葉は世界を把握する前提として「天」を置いているわけですが、儒教に限らず古代中国の思想の原点は天であり、天の下に全てが存在しているという認識です。そもそも天子がなぜ天下を治められるかというと、それは天から委託を受けているに過ぎないわけで、聖人も凡人も本質は同じだ、ということは古代のいくつかの文献に書いてあります。この考え方を敷衍すると身分制度の否定になり、平等思想が成立する可能性がありました。

ではなぜそこまで進まなかったかというと、これはもう現実に身分制度が秩序の装置として機能していて、それは近代国家にとっての立憲主義や三権分立と似て、文明と野蛮を区別するものと信じられていたからです。もし身分制度を否定したら、孟子でも狂人扱いされたに違いないことは古代の文献を読むと感じられます。

だから古代思想から時代の限界を取り除いて本質はどこにあるのかと考えてみると、意外に近代思想と一致するものを見付けることができると考えています。

さて漢の儒教的味付けも時代が下ると次第に濃くなって行き、爛熟して末期を迎えます。政治も経済も混乱し、思想的にも動揺します。そうして中世に向かって行くのが三国時代で、『三国志』にはそんな時代に生き死にした人間の姿が記され、そこには長い両漢時代を経て乱世の試練を受けた古代の思想が非常に鮮やかな色を放っています。

そんなわけで『三国志』は他の史書とは違う魅力を持っていて、単に面白いというだけでなく、現代のあり方を見直すための光源の一つとしても価値があると思っています。