id:Kodakana
自分(id:Kodakana)のことを語る

言葉というものは通じないのが普通だ。
メシ・フロ・ネルくらいならともかく、もう少し複雑な事となると通じなくなる。
そこで昔は古典というものがあって、古典を参照することで言葉を通じさせた。少なくともそれが糸口になるものであって、そのために必須の教養とされたものが古典だった。
日本も中国も地域的多様性が強く、時によるとそれが表に出て四分五裂するが、ある時にはそれがサッと一つの上部構造の下にまとまってしまう。こういう不思議な現象にも古典が力として寄与したろう。話ができるというのはエラいことだ。
ところが東洋の近代化は西洋への対処に急で、そのために古典を必須の教養とみなさなくなった。
今や書店に行って教養と札の付いた棚を見ても中身は雑学であって教養でない。それなら辞書を引けば良いかと言えば、言葉には文脈があってこそ、型どおりの説明だけでは知ったようで知らないということになる。共通の知がないから勝手な話しをしはじめるのが道理だ。そうなると言葉が本来の通じないものに戻るのはすぐで、気の合う仲間だけで党派を作って、声の大きさや力の強さだけを競うことになる。
近代化して「標準語」なんてものができただけ始末が悪い。言葉が通じるものだと錯覚するのは間違いの本だ。みんなお互いに宇宙人だというくらいのつもりで接しなければならぬ……