あまりに大量なのでとりあえずまず、めもる
>だから私はサンドロ・ボッティチェルリを愛している。
彼が、『神曲』の挿絵をかき、ネオ・プラトニズムの思想や麗しい詩を具現化し、言葉で伝えうる以上のことをこちらに訴えてくるから。毎年新しく異説が出るあの複雑怪奇な絵をかきあげてひとびとに何万語も語らせながら、見る、というただそのことだけで言葉では到底語ることのできない至福をもたらしてくれるから。
>へえ、おれ、ターナーが好きなんだよね。
彼は見た絵について、その大きさと与える印象の違いを話した。絵を前にせずにそれを説明するのは存外難しいものだけれど、達者だった。落ち着いた深みのある低音で語られて、私はすなおに耳をかたむけた。
自分の態度がきゅうに軟化したことに心中で苦笑しながら、嵐の絵ならレオナルドの素描も面白いし、北斎にも迫力のある不思議な構図のいいのがあると伝えた。それは画集で見たことがあるとこたえられた。ジョルジョーネの《嵐》の空も印象的だしロイスダールの空も見応えがあるんじゃないかな。
そう言うと、彼はロイスダールについては思い出せないらしく聞き返してきた。十七世紀のオランダの風景画家、すごく低い水平線のうえに風に吹かれた雲が弱い陽のひかりに撫でられて迫り出すような景色をかいてて、あれ見ると大河浪漫の出だしの情景描写っぽくて、後のロマン派の先駆者だと思うよ。ああ、ライスダールのことか。うん。十七世紀だとレンブラントやフェルメールと同じ時代だよな? そう。レンブラントの自画像はいいよな。
>唇を噛んで、まるでフェルメールの絵に出てくるような黒と白の市松模様の床を見つめていると、彼が手に持っていた本を台車のうえに音をたてないように置いた。
>《春》を、そこに描かれた花の意味と西洋占星術と錬金術、そしてメディチ家との関係で読み解くという試みだ。ボッティチェルリの若きパトロンであるロレンツォ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチとその妻セミラミデのための祝婚画。セミラミデは、画家の美神でありながら早逝した美女シモネッタの姪にあたる。あの画面いっぱいに咲き乱れる花々はみな、婚姻や愛を意味するものだそうだ。衒学的で凝り性と、オタク気質溢れるサンドロのことだから花言葉にこだわるくらいことは充分に有り得ると楽しみにしていたはずが、自分の鼓動と喉の狭まりを意識しすぎて辞書をひらいて読むほど夢中になれなかった。
>夢のなかで、私はメトロポリタン美術館にあるギュスターヴ・モローの絵に描かれた半人半獣の小さなスフィンクスそっくりの生き物になっていた。例の、朝には四本足、昼には二本足、夕べには三本足で歩むものは何かという謎かけをする相手をわくわくしながら待っていると、あの妙に扇情的なオイディプスの扮装をして杖をついたミズキさんにあっけなく捕まった。
どうして捕まったのか経緯はわからない。夢というのはそんなもので、次の場面ではあの絵のように、その胸にしがみつくような姿で頤を撫でられていた。どうやら彼には伝説通り正解を答えられてしまったらしい。
頤を撫でられているのはきっと、アングルの絵のオイディプスの姿勢のせいだとあとで気がついた。左手の掌を上に向けた人差し指がちょうど猫のあごのしたをちょいちょいと擽るような具合なのだ。
>ニューヨークでモローの絵を見たとき、私はすぐにボッティチェルリの《パラスとケンタウロス》を思い起こし、左右や男女の対比、その意味を反転した。あれはアングル、そしてマンテーニャの影響が問われるものであるとは知っているけれど、岸壁、オイディプスの等身より大きな杖などがその印象を連れてきた。モローは、あの少女漫画的装飾性をもってして、間違いなくボッティチェルリの後継者の一人であると私は思っている。
>褐色の髪の天使が振り返り、難しい顔をした私を見おろして微笑んだ。丸く特徴的な額、幅のある二重、中高の中性的な顔はレオナルドの絵によく似ている。さっきの態度は癪に障るが、こういう顔は嫌いじゃない。
>その後ろではようやく靴をぬぎ終えた金髪の天使がわずかに瞳を細めて私を見ている。こちらは万人に好かれるラファエロ的に甘い風貌だ。そして、私のいちばん好みの顔をした年若い天使は、なにに驚いたものか瞬きをくりかえしていた。
>一目で惚れこんだのは、あれが《春》の絵にあるのとそっくりだからだ。花咲き乱れる大地を踏む、ヴェヌスの足をつつむあの細い紐だけの華奢なつくりのサンダルに子供の頃から憧れていた。
こんなもんかな
あとは絵を探してくる
