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新日本プロレス/BEST OF THE SUPER Jr.のことを語る

BOSJ33決勝戦をみて(完結版)

ついに小松洋平が優勝した。
ただこれしかない。
今年は小松の年だろうと最初から思っていてそしてそうなった。
「こまつー こまつー」とただ泣くことしかできない。濁点多めで。
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私は昨年「お弔い」と書いた。
https://pulpdust.org/i/entry-1942841.html
それはこの大舞台で一旦ケリをつけるのだろうと思ったということ。
そしたらなんと、「極上のケイオス『第二章』」があった。
これを第二章とみるか二番煎じとみるか。難しいところである。
決勝戦が昨年と同じ顔合わせになることが決まった時、同じ煽り文句(極上のケイオスを見せてやる云々)を使ってきたYOHに対して私は「それ二回使うのはどうなのよ?」と危惧したのだった。
結論からいうと昨年以上に好意的に受け止められているようだ。特に中邑ムーブが熱狂を呼んだようである。
そして今私は「去年と同じに見えるけど、これ、去年とはちょっと違うんかいな」と考えてはじめている。
去年のはケイオスそのものがテーマだった。今年はケイオスはインクルードされたパーツであった。そんな感じで今のところ考えている。色々取り揃えておりますよ、その中にはケイオスというセットもありますよ、ご所望ですか? ご所望ですね? と出してきた。それが今のところの妄想。
(ここより追記)
この一年、彼はミミックレスラーという個性をますます磨き上げ、他人の技で試合を決められるまでになった。ラーニング、憑依といった言葉が解説席で頻出した。
いわゆる「掟破り」として相手の技を使ったり、縁のあるレスラーの技をオマージュとして挟み込んだりは、誰でもがすることになっている。だがそれで勝ちを決めることはまずないのが現状だ。それは文脈でありそれなりの規律であるだろう。特に「掟破り」は自分の技を模倣されて負けるわけにはいかないという相手レスラーの意地の見せ所でもあるのだ。
だがYOHはそれらのお約束を「掟破り」してきた。その結果、彼の試合はいつどこでどのように終わるかわからないという緊張感を常にまとうようになった。これは素晴らしいことである。私は常々、特定の技(フィニッシャー)以外では試合は決まらないという「お約束」に不満を持っていたので彼のやり方は大歓迎なのだ。私は「何か想像もつかないことが起こるのではないか?」と思わせてくれるレスラーが好きだ。
(私が見るところ一般的に)他人の技を使うことについては観客が盛り上がる一方でそれを嫌うファンも少くない。ちょっとでも度が過ぎると白けてしまう恐れがある。また熟練の度合いも本家に比べれば劣るのが当然で見栄えよく決めるのは難しい。素早くあるいはさらっとさりげなく入れないとボロが出る。いずれにせよ一瞬でピリッと効かせるのが本意なのだ。とても繊細で高度なバランス取りが必要で、人と技の相性で向き不向きがあるところだろう。どのレスラーもその配合の塩梅に常に工夫をこらしていると想像できる。
だがYOHは無節操ともいえる参照先の多さと図抜けた頻度と美しい仕上がりでそこを突破した。無理をぶち抜いた。「あいつがやるんならしゃあないわな」と思われるところまでやり続けた。
これは誰もができることではなかった。
なぜ彼はできるのか。もちろん創意工夫と努力の結果であるのは当然だが、それは彼が器用だから、という当たり前すぎる仮説はどうか。あれは器用を突き詰めた結果である、と。ここで、YOHの躍進は「器用貧乏の逆襲」である、という見立てはどうか。
「器用だけど個性がないよね」「器用だけど面白くはないよね」「器用だけど華がないよね」いや実際にYOHがそう言われたのかどうか確かではないが、そういう評価ってありますよね。競争の激しいプロレス業界には特にあるあるだと思うし、それ以外の環境でも、なんなら平凡な生活を送っている我々の周りでもちょこちょこ聞く話じゃないですかね。器用って褒め言葉のはずなのに! なんなんだよ! って思うよね。器用は武器であるはずなのにだ。いやふざけんなって話ですよ。器用を貶しの枕詞にすんなよって話だ。いやわかるんだ。ただ貶したいんじゃないんだよな、むしろ同情的なスタンスなんだろうなってことは。
あんなに上手いのになんで今一つパッとしないんだろう? っていうことはプロレスではよくあることで、それは本当に不可思議で、本人の資質や努力だけで決まるものでもないのが難しいところ。YOH もそういう時期があったと思う。負傷欠場を挟んだのでさらにそれが長引いた印象になった。
先輩レスラーの中にはかなり直接的に批判をしていた人もいましたよね誰とは言わんけども。勿論期待の裏返しでしょうよ。半ば本気でもどかしかったんとちゃうか。あんなに真面目にやってるのになんで? と。そしてどんな形であれ言及することはその人の存在を忘れないというレスラーの意思表明だ。
ファンも然り。もどかしい思いを共有しつつもいつか輝く時がくるのを期待している人もいれば、厳しめの叱咤激励をしている人もいたように思う。それでも不思議と、敢えて「不思議と」と言うが「アイツはだめだな」って言う人は少ない印象。なんでなのかってのは私の妄想なんだけども、そういう人は結構いるからじゃないだろうか。身近な人に。あるいは自分自身に。彼の似姿を見たんじゃないだろうか。だからなんとなく報われてほしいと思った人が多かったんではないかな。
そんなわけで、それ自体はよくあるリングの景色だと思う。他の選手の反応やファンの受け止め方も含めて。プロレス史の中でそういう選手は何人もいただろう。それぞれがそれぞれのやり方で切り抜けていったはずだ。
だが、YOHのやり方はあまりにも例外であまりにも独自だった。器用を突き詰めたらどこまでいけるのか。辿り着いた先があのミミックぶりであった。そしてその独特の動きを、変態性(※中邑真輔の表現による)というキャラクターが下支えしている。決勝戦で変態性を視覚化したのがニュウ・オカダ風ガウン―アホみたいに高い襟とアホみたいに短い着丈―であった(乳上バンドのほうではなく)。そうか、これがケイオスか。中邑真輔のクネクネに通ずるものがあるなと。知らんけど。器用で真面目で変態。この組合わせが新しかった。
最後にこれまでの論立てと矛盾するが重要なことを書き加えねばならない。それは、決勝戦で勝ちを決めたのは自分自身の最上級のオリジナル技、ダイレクト・ドライヴであったということだ。彼は公式戦で様々なフィニッシュ技を使ったが、D.ドライヴだけは出してなかった。試みたことさえなかったのじゃないだろうか。だから決勝戦は必ずこれで決めるだろうということは誰もが予想できたことだった。あれだけ奔放に予測不可能に暴れておきながらシリーズ全体の筋書きと結末は古典的で期待通りをなぞるものだった。溜めて溜めて、ここに来るよねと誰もが期待するところにズバーンと入れてこられる気持ちよさ。よっ、待ってました! のこころ。この対比、このコントラストも素晴らしかった。またこの時のD.ドライヴがねえ、高く上がって随一の出来だった。ジュニアの中でも最軽量といえる藤田が相手ということあったかもしれないが、それにしても格好よかった。ここに向かって全日程が収斂していったのだと思えた。
予想できない興奮と予想通りの快感。その両方を提供したYOH。見事であった。今年はあなたの年だった。おめでとうおめでとう。ありがとうありがとう。