元々「差別的な扱いを受ける人がその被害を訴えてひとつひとつやめさせてきた歴史があるはずだ」なんてことも想像せずに、自分や社会が使える言葉の自由だけが大切と考える人が使うことが多いから「言葉狩り」的あれが本当に嫌いなんだけど、そもそも、他人の身体的特徴や心をあざ笑っていいと思うことがわからない。
そもそも「これは差別的な表現では」の回答にあたるのは「これはこう言う理由で差別ではない」(例えば、差別的な表現で笑いを取っておいて、実は、その笑ってる人を笑う、と言う構造になっている、とか)でしかないと思うのだけど、「笑いとはそう言うもの」だとか「ああやって取り上げる方がまし。腫れ物を触るように扱うべきじゃない」(なんで、笑われる以外の扱われ方が、腫れ物に触るしかない、感じなの?)「ああ言うものがあるから差別について考える」だとか「私のために、差別を受け続けろ」ってちょっとあなた何言ってるかわかってる?って感じだもんなあ…
(そういえば、えきのみちかの話の時にも「こう言うのいきすぎると焚書になる」って心配されてた方いたなー…あれの争点はゾーニングだったと思うし、その表現自体が誰かを危険に晒してきた、と言う話をしている横で、行き過ぎを心配できるって言うのがどう言うことか、ってことは考えないんだよなあ。「問題ないと判断」することこそ自分の感覚に基づいた判断以外何者でもないだろうに)
