ここでは国策の失敗や権力者の不始末にも責任はない。なんと言ったって別に彼らは何の責任もない対抗勢力という設定で生きているのだから。例えば罪あって罰のない世界のように、彼らは反権力のまま権力を握り、何も決めず、何も引き受けず、決める時は自分達だけでこそこそ決め、引き受ける時は引き受けるポーズだけをしてみせてただ利権を分ける。そして彼らがするのはいつもマチズモの批判、盟友は少女だけ。(中略)
(中略)三権分立とか表現の自由とかも全部弾圧し終わった後だから誰も口を出せない。というよりここの独裁者と対立、矛盾したものは独裁者に吸収、併合されるのである。但しここではそれを決して併合とは言わない。先程述べたように止揚、アウフヘーベンと言っているのである。無論間違った使い方だ。
そもそもそんなところにヘーゲルとは変ではないか、などと言っても無駄な事だ。というのも、彼らは都合のいい時はデリダも使うから。最悪の時なんか血液型占いとかお色気占いまでも使ってくるのである。
例えば司法権と立法権をひとつにして独裁者の下に置く時も、「アウフヘーベン」、もっとロコツな時は被告を原告が止揚してしまう。また裁判中は始終デリダも引用して真実などないという見地から全証拠を否定する。
哲学とはこの国では誤った適用を真理に見せるための手段に過ぎないのだ。方法は簡単、ただ引用するだけ。
(笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』、2006年発行)
勝手に引用のことを語る