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はてなハイクのことを語る

世の中には発表の場のあてがなくても書き続ける強い意志をもった人がおそらくいます。しかしそうではない人もいるわけで、読んでもらう場がないと・発表の場がないと思うと、書こう、という力がはいらなくなる人もいます。おれがそうです。ハイクというのはおそらく誰かがよんでくれるかもしれないという淡い期待を持たせるには充分なスペースでありました。誰かが読んでくれるかもしれない、というのはツイッタも同じですが、字数制限があります。制約が加えられれば、書くということはめんどくさいことであったります。私がずるずるだらだらといろいろ書いて続けてこられたのも、ハイクがあまり制限がなく、ゆるい場であったからです。もしなくなったとしたら、書かなくなるだろうなあ、とは思う。書くことをしなくなることの最大の問題点は、考えること自体が減ることです。書くことを考えるということは文章を構築することで、楽な作業ではないはずです。誰かが読んでくれるかもしれないという発表する場がなければ、文章構築という面倒なことはどうしても減ります。おれのばあいまあちょっとは利口になったのがバカに戻るだけかもしれんのですけども。
ちょっと脱線すると発表の場を奪うことというのは書くことの自由の抑圧にもなるのでそこにいる人に精神的ストレスを与えるでしょうから、もし海外版はてなハイカーさんが「わたしたちがなにか悪いことしましたか?終わらせないでください」と直訴してるのだとすれば、それはなんとなく理解できる気がします。書く場所というのは、書いてる人に考える場と書こうという力を与えるんではないかなあ、と。もし日本語版がなくなることがあるとするのなら、その書こうとする力をそがれそうになったら、海外版のはてなハイカーさんと同じ文面ではないにせよ、その時点で感謝すると同時に、再考を促すメールくらいは送るかもしれないです。
ハイク自体は誰もがそこで遊べる・表現できる・その表現を批評できる・その表現に対して拍手の代わりにスターをつけることができる公園ってか広場ってか舞台みたいなものだと思ってて、私企業である株式会社はてなにどこまでの体力があるかどうかはわからないし、はてなの大株主のじぇいこんさんが表現についてやWebに対してどういう思想を持ってるのかわかりはしないけど、できうる限り無くさないでほしいなあ、というのはある。