[ひとりごと長文仕様][文学のこと][笑いについて]
十二指腸潰瘍をやったとき、喰えないものがあって、その一つが羊羹でした。草枕の中に笑えるくらい執拗に羊羹を褒める記述があるんすが、十二指腸潰瘍になるまえはその記述は写生だと考えていたんだけど(吾輩は猫であるの中でジャムを8缶も喰う記述からすると甘いもの好きであったはずなので)胃病をやっていたゆえに羊羹が喰えないせいで(喰うとおそらく苦しむことになる)手を出したいけど出せないゆえの執拗な表現になったのかな、と思い至った。ここ2年くらい、散発的に漱石を読み直したんだけど、おかしみのある裏には悲劇性というか陰鬱な状況があるのではないかと思ってます。坊ちゃんなんかそう。たとえば天婦羅そば(←すっごく胃腸に悪い)4杯食べて目撃されてからかわれるんだけど、笑えるエピソードにしつつ、裏にあるのは変なことをするやつを笑ってやろうっていう監視社会なわけで。おかしみの裏に悲劇というか悲惨な状況があるのは漱石だけか、そうじゃないかはわからない。
光ちゃんが作曲するようになって大江さんが自分の小説の役割を終えたと考えていったん断筆したとき、中島梓さんが「文学を殺したのはだあれ?わたしだわと大江健三郎は言った」≒大江さんを救えたのは光ちゃんの音楽であって文学ではなかった、じゃあぶんがくってなんのためにあるの、っていう疑義をだしてて、ずっとそのころから文学ってなんだろうと20年以上考えててもちろんいまでも答えはないんだけど、突飛な仮説として、少なくとも漱石は悲劇的というか陰鬱な状況を書くことで、たとえば江戸っ子の気質を堅持しようとすればするほど周囲との関係が悪化する坊ちゃんを書くことで、江戸っ子である漱石は客観視できて救われたのかなあ、とは思っている。
表現ってか書くことの大事さってほんとはあるのではないか。
ここらへんのこと、もしかしたら文学部では当たり前のことかもしれないけど非文学部なのでさいきん知った。まとまりのない、とびとびの文章で恐縮なんすが。
自分(id:gustav5)のことを語る