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自分(id:gustav5)のことを語る

[ひとりごと長文仕様][文学について]
「玉、砕ける」という開高さんの短編があって、椅子が2つあってどちらかに座らねばならぬ、でもある一方に座ることを暗に示唆しているところがあってもう一方を選べば「打倒」と云われるのがわかってる、という状況の中でどちらかの椅子に座らずにどうやって切りぬけたらいいか、ということを友人に尋ねる主題の話がありました。その友人は老舎の話をしだして、老舎が革命後の中国の知識人の生活について問うのだけど直接答えず、西安だかどこかの食堂の料理について微に入り細に入り長いこと説明していたことを説明しだした、ということがかいてあった。私は長いこと性のことについてバイセクシャルとして自覚しててどっちつかずの自分の問題としてとらえていたので、この老舎の姿勢を見習って、直接問いに答えず、見たものだけを描写して、というのが得策なのかな、と思っていました。でも今年に入って東大の刈間教授の書いた文章を読んでいて、老舎が生きていた文革の時代には美辞麗句が氾濫し、自分の感覚でとらえた事実を描き出す模写は疎んじられていたことが述べられてて、目の前のことを微細生彩に模写してはぐらかす老舎の方法は生き残れないことは老舎自身も自覚してたかもしれなくて、質問に関しては選ぶべきと期待される椅子はやはりひとつしかなかったし、どちらの椅子にも座らずにまぬがれることなど現実的にできなかった、ということを理解しました。
もちろん今は文革当時の中国と違うものの、あんまり環境は変わってないかもしれない意識はあります。もうこうなってくると逃げ道はないと知ると、どうせ死ぬのなら、どれだけ楽しい思いをして死ぬかというところがあって、それこそ文章の綾というのを楽しんだり、物語の海に沈んでやろう、という気でいます。文学かなにかなんて知らないし、知ろうとも思わない。