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2017年の読書を振り返るのことを語る

<人物叢書・大正天皇>
○日光の大正天皇のために建てられた旧田母沢御用邸へ9月に行って、なぜ日光におおきな御用邸があるのかが気になって読んだ
○明治天皇の子は夭折することが多く、男子で生き残ったのは大正天皇だけ。幼少時に髄膜炎等にかかり健康優良児ではなく、中退した学習院でも問題児であった(身分が身分なので叱って良いのか迷った末に叱り飛ばすなど試行錯誤があった模様)。しかし熱海をはじめとして各地を転地療養するうちに健康は回復しつつあった。田母沢御用邸が建てられたのもその延長線上。漢詩については才能をみせたものの、学習院を出ていないことから集団生活が不得手で皇太子時代から人間関係がうまくいかず周囲との軋轢がかなりあった。
○天皇即位後は公務に勤しむものの、第一次大戦などにおいて安易な決断をしないように先帝の老臣から忠告を受けていたにも関わらず内閣の云うままに動き、先帝と異なり政治的な威信を得ることはほぼなく・確固たる見識があると思える兆候もほぼなかった。また途中から海軍の演習時や国会において勅語を読めなくなるほどおそらく髄膜炎等の後遺症とおもわれるものが悪化しはじめ(ほんとは何の病気かはわかっていない)、最初のうちは国会や軍の対応は代読で済ませたものの、それが連続すると皇室が国会や軍を軽視してるとなりかねず病気を公表し、その後職務代行者としての摂政を置く案が浮上する。
○皇室典範により皇族が参加する皇室会議を開いて摂政を置くことができるが発議は天皇でなくてもよく、実際その摂政設置のプロセスに天皇のあずかり知らぬところで根回しや計画が進み、権限を代行する摂政が設置され、皇族会議のあと大正天皇に一応の説明をしたうえで侍従長が印判を大正天皇のもとから引き取ったものの、印判を持っていかれてしまった・かやの外だった大正天皇は「己れは別に身体がどこも悪くない」ということを直後に侍従武官に述べたという記述あり。大正天皇自身は自らが病にかかっているという自覚がなかった模様。摂政設置後は葉山や田母沢等で静養するが回復はせず死去。
○なぜ大正天皇がなぜ近代史の中でさして書かれなかったかがうっすら理解できた・日光におおきな御用邸があるのか理解できたと同時に、適格性が検討されることもなく神格化された地位として生身の人間がシステムに組み込まれてしまったあとに、期待される機能が欠けると本人の意思とは関係なく職務を事実上はく奪したプロセスを読むと、人を人としてみなさないところがないわけではない天皇制というものの怖さを改めて思い知った気が。
○今年の気軽に読むつもりが重いものを読んでしまった感部門1位