@kodakana_ship10
文章/主語のことを語る

英語や中国語のように、語順で係り結びが決まる度合いが高く、文頭に主語を置く言語では、「誰が」「何が」を最初に明確にしておく必要がある。日本語では、係り結びは助詞で決まるので、語順の自由度が高く、主語の後出しをしても形を繕いやすい。それでうっかりすると、後出しもついぞ忘れて、省略するのが癖になってしまう。

しかし中国語も、古典漢文では「文脈を追えば分かる」主語はむしろ積極的に省略する傾向が強いと思うのに、それに比べて現代語では我とか你をよく使うようになった感じがする。だとするとこれは、中国人が異民族との関係から意思の疎通を厳しく要求される経験をしてきたろうことと関係がありそうに思われる。

現代日本語では、疎通を考えて言葉を選ぶよりも、むしろ多少通じにくい言い方をすることを良しとするような風潮があり、「言わなくても分かる」ことで仲間であると確認したがる意識が強いように思う。「文脈を追っても分からない」ような言い方がそこかしこにある。

結局の所、言語も社会的慣習の一つなので、歴史的経験によって変化をする。必要とされる物の言い方が、まず社会的に義務的になり、そのうち言語構造的に義務的な形式に組み込まれていくろうと考えられる。日本人が主語を省略しがちなのは、歴史的環境が日本語圏にとって厳しくなかったことの反映であり、それが今になって色々とまずい問題を引きこす要因になっていはしないかと案じられる。

「曖昧な日本語の私たち」は外国語話者に対して閉鎖的なだけでなく、同じ日本語話者の中にも分断を作り出す。だけどそれを「日本語のせい」にしてはいけない。

語彙や文法は所与の前提ではなく、人々の言語活動によって変わっていく。未来の日本語がどうなるかは、私たちが日本語をどう使っていくかによって選択されるのだ。