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博多祇園山笠のことを語る

今年も、山笠のあるけん博多たい、の季節である。いいなあ、まだ見たことがなくてさ。
https://lite.blogos.com/article/388271/?axis=&p=2
この、記事2頁目の「飾り山」、明治以前はこれを舁いてたんだけど、電線が張り巡らされた影響で、今の低い舁き山になった。それでも1トンって。
飾り山は、これ担いでタイムトライアルやってたのかよ…と、慄然とする。当時の絵図が残ってるけど、もう、凄まじい。
当然、人手は博多の各「流」(山ごとの担当祭典区といったところか)だけでは、ぜんっぜん足りなかったので、近郊の村とかで人手を募っていた。
ある年の山笠のあと、そうして参加した近郊の村人が、どっちの山の方がすごかったとかなんとか、ささいなことで喧嘩になり、片方がもう一方を殺してしまった、という江戸時代の記録がある。
「流」は私の卒論のテーマのひとつで、櫛田神社に残っていた記録『博多津要録』に出てくる話だから、これは本当。
つまり「博多っ子だけ」という「伝統」は、明治に入ってから。案外新しかったりするのよなー。
ちなみに当時は各山は「博多」だけを巡り、「福岡」にお住まいの黒田の殿様達は、博多に来て、桟敷席から見物していたそうだ。
博多どんたくは、元々博多の町衆が領主を訪問する年賀行事だったので、博多から出て福岡城の中まで入って、新年を言祝いだ。
今のどんたくと同じで、本来の松囃子の後ろに、色々な「つくりもん」で飾り立てた人々がぞろぞろ続いてパレードをし、酔っ払って器物損壊して、そのまま福岡奉行所に引っ立てられる人もいたそうな。
(博多・福岡は、両方とも、福岡側にあった福岡奉行所の管轄。少なくとも刑事事件については、博多に自治権はなかった)