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ヘイトクライムのことを語る

社会における様々な事象に対しコメントをすると言うのはSNSにおける一般的な作法となっているが、これにはある程度陣営ごとのテンプレ的コメントと言うものがある。
そういったテンプレ的コメントを、まるで趣味講座講師のように綺麗なお手本を示せる才能と言うものも勿論あって、しかもそのテンプレ的コメントと当人の社会との関わりかたが必ずしも一致するとは限らない。

だからといって、そういうコメントをする人々を「偽善者」のように語り、あるいはテンプレ的コメントそのものを嫌悪する必要はなく、そういった建前が自然と出せることがそのひと自身の問題行動への歯止めになることも期待できる。もちろんこれはそのテンプレ的コメントが公共の福祉に適う場合であって、むしろ公共を破壊するテンプレ的コメントに身を委ねすぎた結果、様々なヘイトクライムが引き起されてきたし、彼ら自身や彼らのシンパにとっては「偽善者」と真逆で、信念の為に自らの社会的死すら厭わなかった「殉教者」として捉えられるだろう。

まぁ、それがヘイトスピーチが許されない理由でもあるんだけど問題はこの「偽善」なるものの扱いで、ヘイトスピーチ、ヘイトクライムの例、そしてこういった人々がヘイト側に傾いていった背景にはやっぱり「偽善」なるものへの嫌悪感があって、ただ結果的には悪そのものを狂信的に支える側にまわってしまう問題で、ならばそういったものは気にするだけばかばかしい「偽善」上等という態度はやっぱり問題で、実のところ「偽善」上等と言う態度をとる人々の背中が「偽善」なるものへの嫌悪感を生みだしていると思う。正義を語る人は自らの語りから自らの態度を改め続けなければならないし、自らの語りに自らが騙されることに警戒し続けなければならない。