差別と偏見がしばしば混同される背景に、差別である偏見があって、「その認識は偏見であり、しかもその偏見は差別だ」と言うときに「その認識は差別だ」と当然三段論法的に短絡できるんだけど、こういった語り口はまるで認識の形そのものを検証することで差別であるかどうかを見分けられてしまうような誤解に繋がるのではないかと思っている。
ただ、もしかすると他に混同させる原因として議論のスコープの問題がありえるのではないかと思うようになってきた。
ここでもういちど差別概念についてざっくりとおさらいをすると、集団的パワハラ構造を維持、拡大するものが差別的行為として糾弾されるべきものと言うべきで、ある集団における権力の保持者が被差別者となることは原理的にありえない。
ただ、ここでは前提として語られる、マイノリティ、マジョリティといった集団と、それらを包含する集団があって、差別議論はその包含する集団について行なわれる。
ただ、この集団はさらに大きな集団に包含されていて、その外側の集団ではある属性の持ち主がマイノリティであるかマジョリティであるかということが反転するということはざらにある。
たとえば最近は経済的にも人口的にも存在感の大きな中国人に対する差別はありえないのかと言えば、それはたとえば日本とかヨーロッパとか中国人が十分にマイノリティとなりえる社会においてはありえてしまうわけで。
ただ、こういったときに「それは中国人差別だ」と言うその社会における問題として告発した場合に、差別者が「中国人差別なんてありえない」ってスコープを不適切に拡大する詭弁を用いたときに、そのトリックに気付かずに偏見の問題に矮小化させられたまま抗議を続けてしまうとかいうことはわりとありえることで、こういうことも混同の原因なのかなとか思う。
あとはまぁ、ある集団内における差別を別集団が助長してしまうような場合とかも、こういうことって起きがちかなとか。
まぁ結局は「どういう集団において」ってところに常に立ち返るべきなのかな。