道徳は数学のようにヒトのある認知の抽象化であると思っている。
数は異なるもののなかに共通の性質を見出すことにより始まる。たとえばリンゴは、あるリンゴAと別のリンゴBの間に共通する性質である。
異なるものに共通するものを見出すから数えることができる。そうやって抽出された数に対する操作とその性質に関する学問が数学。
道徳は他者の存在を認めることに始まる。自らが完全であるのならば、その完全な者の行為の善し悪しを問う必要など無いだろう。
そして善し悪しを問うことが自動的に他者の存在を認める事になるように、あらゆる問いはその問いの前提となる何ものかを認めることになる。
「なぜ人を殺してはいけないか」と言うのは、問うことにより他者を認めているのと同時に、その言葉を用いて問われる具体的な他者を認め、
そしてその具体的な他者に問うことで解答を得る可能性を想定している。
ならばこの問いは問う時点で問うた者自身が解答を用意しているも同然である。
人とは問われる者のことで、それを殺してしまえば問うことすら出来なくなるのである。
そしてこの「人とは問われる者」と言うことが歴史的に支持されてきた殺人の謎を解くものでもある。
かつて支持された殺人は、問うことへの絶望と共にあったのではないか。
そして時代を経て死刑や戦争などを克服しようとすることは、問う技術の進歩とともにあるのではないだろうか。
また、この技術による線引きは、宿命的な罪への不安とともにあって、そこにアニマル・ライツの問題や中絶の是非の問題が横たわっていると思っている。