まぁ「日本SUGEE」そのものに対する批判ての今更すぎるんだけど、ふと思い出したことがある。
と、言うのも90年代ぐらい自分自身「日本も案外捨てたもんじゃないじゃない?」と思ったこともあったんだが、それと現状の「日本SUGEE」って違うもので、
それまでにあった「現代日本の文化は経済的にも歴史的にも豊かな欧米に比べたら貧しいもので、欧米での承認の無いものは内輪のくだらないものだ」とか、「J-POPを聴いている奴はバカで通は洋楽を聴くものだ」みたいな意識を否定しえる、日本発のものもそれなりに受け入れられていることが知られるようになってきたことによるものだった。
当時の感覚が健全に育ち得るものならば、明治的な「脱亜入欧」コンプレックスを克服し、東アジアのいち小国としての自身の歴史を再確認しつつ、やはり海外のものに刺激は受けながらも国産文化についても自信を持って伸ばして行けるもののはずだったと思うけど、むしろ「もはや頂点、何も参照する必要はない」と言ったとんでもない勘違いに堕ちていったように思う。
すべての潮流は劣化する。たとえばヒッピー文化を背景とした「性の解放」は簡単に性搾取者たちに利用されていったように、国産文化の自信の回復は簡単に文化的に怠惰な者たちに利用されて行った…そういう流れの一つでもあろうけど、その文化的に怠惰な者たちに「脱亜」の執念だけは消えていないように「外国人が褒める日本」コンテンツには非アジア人種ばかりを出してしまうと言う背景にはやはりコンプレックスの根深さを伺うべきかとも思う。
そのコンプレックスの根深さを考えれば、明治以降と言うのを成功体験のように捉える意識と言うのが強く、それはもしかするとたまたまかつての列強である中国王朝の影響を屈辱的なまでに受けなくて済んだことは辺境にあってこそと言うことを否認しつつ知っていたことの裏返しなのかも知れない。
ならばこれに付ける薬は、弱さを恥じない心ではないかとも思うが、そう思えばこんなところからもネオリベの時代とネトウヨの時代の背中合せであることが見えてくるように思った。
「日本SUGEE」のことを語る