「才能とは情熱である」って意見はどうなのかなって思うところがあって、どれほどの情熱があろうと全く進展が見られないと言うことも、全く情熱がないけど物心つく前からなんとなく英才教育されていたために難なく出来てしまうということもあるので、「才能とは情熱である」と言うのもちょっと違うと思う。
才能とは何かを言うなら実務知識とそれを実現する身体の練度と言うほかない。
そしてそう定義すると生まれもった身体と文化的資本といった「天賦」のものの要素が顔を覗かしてしまって、それはあまりに残酷だから「才能とは情熱である」と言ってしまいたくなるのだろう。
ただ、本当に問題にすべきなのは、すべてがシンプルな評価基準を巡って数多の猛者が長年研鑽し続けてきた陸上競技や囲碁や将棋のようなスポーツではないのに「才能がないのだから諦めなさい」的な禁止をしばしば何でもかんでもそういったスポーツのように捉え、しかも「世界でトップクラスでないと意味がない」的ベラボーなハードルを設定してしまいがちなことじゃないかしら。
いや、どんなにしょぼくても才能は才能だし、得た才能の運用はそれこそ本人次第でしょうってことが需要なんじゃないかと。
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