「ヒトは本能の壊れた動物」って語り方には違和感がある。最近は動物の生態などについての学問の進歩に伴い、従来「本能」と捉えられていた様々な振舞いの中にも代々受け継がれたものや文化と言えるようなものがあることが示されてきていて、実はそんなに我々と変わらないのではないかと思えることが増えてきたからだ。
おそらくこれは従来のヒトを特権的な地位に起きたがるのは思考のクセの産物ではないかと思うし、特権的な地位に置くのであれば「どのような視点からすると」って説明をつける必要があるのだと思っている。
また、多くの場面でヒトが特別な地位にあるように感じるのは、ヒトはヒトにとって無意味なものに構ってられないし、そしてヒトにとって意味のあることが最も細やかで多岐に渡ってできるものはヒトであるからにほかならないからに過ぎないと思う。
んで、このヒトにとって意味があると言うものを規定するのはヒトの身体であり、この身体の有無の問題が一部のAIを巡る問題を考えるのに重要なことであると思う。
たとえば身体なき計算機によって作られた「AIひばり」は本当に身体のある歴史作家による「竜馬伝」などと同じものと捉えていいのか?
愛を知らない計算機がしみじみと愛を歌うことの意味は何かとかね。
(俺はあの種のものはただの盗作マシーンのようなものだと思っているが、多くの人々がそう捉えないことで文化的、情操的荒廃を招くことを懸念している)
ヒトの身体のことを語る