スーパーで子どもを連れている女性に向かって、通りすがりの、見ず知らずの男性が「母親ならポテサラくらいてづくりしろ」と暴言を吐いた件では、「子どもの頃、スーパーの惣菜ばかりで寂しかった」とその男性に同調する人もいて、そういった発言はいずれにしろ「サーヴされる側」の視線からされているなあと思いました。自分自身を「サーヴされる側」と信じて疑わない人が、「お惣菜を買う(若い)母親」に恨みをぶつけているのではないでしょうか。
一生、サーヴされる側、世話される側として生きてたら、相手にも自分にも主体性がないことになって不便だと思うけどな。それに「世話される私」が身についている人が仕事だけすいすいできるってこともないだろうし、何かにつけてやりとりが複雑になって、苦痛に満ちた人生になりがちなのでは。食べたいものを買って食べようがつくって食べようが、自分で決めたらいいし、自分で調達したものを人からどうのこうの言われることの不快さをわかっているのといないのとでは色々と違いそう。
そして「世話」と "serve" が言語的に同根という話はどの程度確かなのだろう。
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