逆恨みと言うのは理不尽に感じるが、実はものすごく原始的な感情だと思う。
とりあえず脅威は自らの外側にあると考えるのは身を守る為には必要なことで、例えふりかかった災難が自ら招いたものだとしても、その状況に近いところにあった人の中からとりあえず元々あった嫌悪の最も強い誰かを原因として選んでしまう。
で、それを乗り越えるには、それが誤ちであることを悟って、「あいつのせいだ」と感じたことが正しいかどうかってのを冷静になって検証するフェーズを持てるようになることが必要で、さらにそれを習慣化することなどから「オレのせいか?」とまず考えられるようになるなどで脱却できるようになるものだと思う。
こういう原始的な感情の表出を制御できるようになることは明かに高度化している為にひとつの成熟の形と言えると思うけれど、一方で「何の為にそれを高度化させるのか」と言うことにズレが生じ得ることが、「成熟」なる語への警戒心も生むことになると思う。
それはしばしば特定の共同体へ従順になり、平気で嘘をつくような鈍感さを身につけることにすら言われるのだから。
とは言え、そういったローカルなものに縛られず、むしろ普遍化したものを導き出そうと出来る態度を獲得できれば、この成熟は間違いなく祝福されたものになるはずなのだが、この普遍的なものへ目が向くか否かというところにも壁がある。
成熟観のことを語る