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優生思想のことを語る

先日から優生思想がらみのニュースが絶えない。
確かに私達の生は「生きていて良い生」と「生きていてはならない生」の選別と共にあるところはある。
「作物」の為に「雑草」や「害虫」を駆逐するとか、ニワトリを守るためにイタチを捉える罠を仕掛けるとかね。
こういった選別をすることは「私も選別され得る存在ではないか」と言う不安を生み、そして「駆逐されるべきは私の外側にある」と信じる為に「私ではないもの」として信じられるものを「駆逐されるべきもの」にしようとする。目の前で「私でないもの」が無惨に殺される様が安心すら与えてくれる。ある種のおまじないを求めてしまう。

実は、なにもそんなことをしなくても「せめて申し合せることができる者同士、そんな選別は互いにしないことにしよう」と言うことでいい。
そう申し合わせることができる者同士が「人間」なのであり、互いに選別されない権利こそがその人間の権利、人権なのだとは思うのだが。
ただ、この人権は「人間」同士の間でも圧倒的な力関係が生まれてくると本当に守られ続けるのかどうかと言う不安が生まれてくる。
だからまぁ、最近の原始資本主義への復古主義(そのくせ「新自由主義」ってさも新しいもののように嘯いてるアレ)には強者の側が「弱者?なんでオレが面倒みなきゃならんの?勝手に死ねよ」と怠惰の上で反人権を唱えるってだけじゃなくて、弱者の側もこの状況を既定かつ変更不可能なものと信じてしまえばしまう程に、せめておまじないを求めてしまうってことがあるように思えて、権力的格差の罪深さを改めて感じる。

あと、人権の否認を「そんなものはアジア的ではない。アジアはヒトを他の生き物と分別して考えるようなことはしない」と一見西洋を傲慢でアジアを慎しやかに語るような口ぶりの恐しさってのもあるよね。だいたいの生き物は、せめて群のメンバーのことは「人間」だと思っているし、互いの人権ぐらい認めあってるんじゃないのかな?
あとヒトと言う生き物の強みはこの群を概念装置を用いて巨大化させることができることよ。