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「死ぬ自由」のことを語る

「死ぬ自由」よりも生きる自由をと言う船後議員の言葉は重く、結局のところ「死にたい」と思えてしまう背景に差別などの社会的抑圧があるのであれば、それははたして「自由」と呼べるのか問題ってのがあるわけで。
では「全く自由意志は死を望み得ないのか?」と言う問いには、「いや、そりゃあるかもしれないよね」ととりあえずは言わざるを得ないのだけど、でもそれはほとんど「そうは言ってもやっぱりおばけはいるんじゃないの?」って問いと変わらず、絶対に否定もできないけれど、しかし殆どの場合無視できるであろう確立的に十分に小さいだろうものに執着する背景にあるものは何かを問わなければならなかったりする。
んで、「死ぬ自由」なんかに執着する多くの人々には優生思想と言う科学的文言に粉飾された呪術的思考を見い出すのが自然ではあるのだけど、もう一つ死そのものにほとんど性的と言っていいほどに魅せられた人々ってのもいて、まぁ三島由紀夫なんかも切腹ものポルノとか名前を変えて書いてたって言うし、性的な変性意識状態でハァハァ言いながらってこともありえるわけで、まぁそういうのの表出はTPOを選びやがれってだけの問題だったりすることもあるのじゃないかと。
まぁ、本当に尊い自由のバリエーションの一つとして「死ぬ自由」を求めるならば、やっぱり「追い込まれたに過ぎないもの」を潰すために生きる自由の方が先だなってなるわけで、現状は「死ぬ自由」なんて全く考える必要がないし、現状多くの福祉現場などの問題を見て尚どうしてもそれに取り付かれてしまうのならば、自身に呪術的な意識がないか、あるいはネクロフィルや激しいマゾヒズムやサディズムがないかを反省したほうが良いのじゃないかと思うわけだったり。