優生思想や排外主義などの横行が公人の発言を契機に増えているかのような語りがある。
確かに公人にはこういった社会の劣化を食い止めることを期待したいので、その責任は追求され続けるべきであり、そういった目的でそれが語られることには一定の理解を示したいのだが、しかし彼らとて一般の意識の腐敗を感じとってその喝采を浴びたいが為にそれらの発言をしたように見え、所詮それは原因と言えるものではなく歴史的なマイルストーンとして記録されるに過ぎないものではないかと思う。
こういうものの原因として自分に説得力を持ち得るのはメディア構造の変化ぐらいしかなく、そして人々の意識が劣化してきていると言うよりは、もともとは表出を躊躇っていた劣情を表出させやすい状況が整ってきたためにそのように見える、躊躇わせてきた社会的構造が相対化、弱体化させらてきたためだと思える。少なくとも自身の周囲を見渡して、彼らの80年代当時の人格を現代にタイムスリップさせたとして、眉をひそめることなく喜んで適応しただろうと思える人々の方が圧倒的に多い。
そして自分が現在、そちら側にいないのは、たまたまそういった心性への反省を迫られる機会に恵まれたというだけに過ぎず、自分自身のかつての人格を現代にタイムスリップさせてもきっと適応してしまっていただろうと思う。
また、こういった実感はおそらく現状発言力を持つ知識人層の多くにいただろう"育ちの良い"人々には実感が持ちにくいことなのではないだろうか?
社会が腐る順番のことを語る