誰もが社会に責任ある個人であると言っても、そもそも責任の概念の理解、あるいは感覚のようなものが十分に普及しているとは言い難い。
その原因のひとつが責任と言う語が制度的にペナルティを負うべき可能性のある者として設定されていると言う場合と、先述のように「社会に責任ある個人」と言う場合と二つの意味を持たされた結果混同しやすく、場合によってはしばしば混同に乗じた詐欺が起きるのだから、そこにある誇り高き要素よりも呪われた要素が目立ち、穢れのように扱われてしまう。
戦争責任における「一億総懺悔」というのはまさしくペナルティを負うべき責任者達への追求を避ける為に、社会を形作る誰にも責任があるのだからと責任を必要以上に全国民に薄く負わせようって詐欺の例だったりで、ちゃんと戦争責任者、あるいはその構造への責任追及がいつまでたってもなされないと言う、むしろ責任を棚上げした形になったのである。…と、ともかく謎の文章を書かざるをえなくなる。
なんつかせめて異なる語であれば…とか思うわけだけれどそんなに都合よく新しい語を発明できる西周のような才能でもあれば良いのだが、とりあえずは責任Aと責任Bとでもしてみるか。
戦争責任(A/B)における「一億総懺悔」というのはまさしくペナルティを負うべき責任A者達への追求を避ける為に、社会を形作る誰にも責任Bがあるのだからと責任Aを必要以上に全国民に薄く負わせようって詐欺の例だったりで、ちゃんと戦争責任A者、あるいはその構造への責任A追求がいつまでたってもなされないと言う、むしろ責任Bを棚上げした形になったのである。
まぁ、責任Bがあるからこそ、責任Aが制度的に要請されるはずなので、「責任B」ってサブみたいなのは気持ち悪いんだが、文章の順番の上で便宜上な。