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心のままに書くのことを語る

南青山の児童相談所建設に反対している人たちはまわりをああいうことを言う人で固めているからああいうことが言えると思うんだけど、ああいうことを公言するには昨日今日の環境では無理なわけで、たぶん彼ら彼女らにとって自分自身はすこしも「めんどくさくない」状況がある。あれほど論理も公共性も倫理も徳もない発言が声高にできるっていうのは、それが「当たり前」っていう環境がないと成立しない事態だと思う。でも、どれだけ多くの同意見に囲まれていようと、意外とすぐそこに外部というものはあって、時折衝突する。そのときこそ、自分たちの言語を鍛え直して外に出て行くチャンスなんだけど、南青山の件はそうなっていくだろうか。何らかの見識が生み出されるだろうか。
(ここから話は飛躍するのだけど、無関係な話ではないのでメモ的に書かせてほしい)
日頃、自身のことを「めんどくさい」って思っているような人の方が常に言動が公共性のチェックにさらされてる(ほとんど自分でチェックしてることも含めて)ってことだから、相対的には厳しい言語生活かもしれないけど(しょっちゅう自分のことが嫌になったり不安になったりするわけだから)、言葉を鍛えるって意味ではきわめて健全なわけで、外部とのつながりをずっと維持していけるかどうかってことからすると、実は「めんどくさい」人の方が強靱なんだな、傍から見た印象とは全然逆で、なんて考えた。
よくハイクで「自分がめんどくさい」って発言を目にして、「え、どこが? あなた全然、なにもめんどくさくないよ!」って思ってたから、一回書いておきたかった。