漢字はいらない!
あー、思い出したこの苛立ち。
やたらめったら「エンパワーしろ、エンパワーしろ」って騒ぎ立てる、「大迷惑なお節介」。「障害者のための、外国人のための」を持ち出す人たちの理屈も同じ。けれど、弱者の味方のフリをして、弱者であることを強いて、「保護されるべき対象であるお前たちに代わって、声の大きいオレ様が叫んでやりますよ」というあらぬお節介をしているヒマはたっぷりあるのに、そこにほんとうの弱者の姿がちっとも見えてこないのはなぜ?
だから、シロクマさんが例に挙げてるような、ほんとうの弱者のニーズとはまるで合わないものになる。
だけど、これって別に、日本に限ったことじゃありません。カルザイ政権が生まれ、アフガニスタンが"解放された"とき、西欧メディアはこぞって「女性のブルカ」をやり玉に挙げました。こんなもの着せるなんて、女性蔑視だ、というワケです。だけど、20年間のタリバン政権以前から、イスラームのみならず、アフガニスタン地方の文化的にも長く着用されてきたブルカを"女性が脱ぐ"、ってことの意味や当事者感情に思いを馳せる人は、私が知る限りほとんどいませんでした。
たとえば、もしも、明日から「よし、日本社会は"解放"されたのだから、女性は服など脱いでビキニで歩きなさい」と言われたら、どう感じるでしょう? ブルカを脱ぐことにはそのくらいの衝撃があったはずです。ことに、農村地区では。ちなみにアフガニスタンは農業国です。
男性だって、自分の母親や妻や恋人が「明日からビキニで街を歩け」と強要されたら? そういうことを言ってくる輩には、ジダンじゃなくても、頭突きを喰らわすでしょう。
お節介者が大好きであろう上野千鶴子女史もこうおっしゃってます。
<世の中には様々な弱者がいる。もちろん、自ら弱者になりたいという人はいない。誰かが、ある種の状態にある人に対して、「弱者」という定義を与えるから、弱者は存在する。これらの人々が普通の権利の持ち主として社会に参画するためには、弱者自身が自らを定義することが必要となる。>
<当事者主権の当事者とは、他人にあてがわれるものではなく、自分で宣言するものであり、自らが自分のニーズの主人公になるということである。他人に依存せざるを得ない障害を持っていても、自分が自分の主人公として、自立するのが当事者である。>
(フォーラム in 札幌時計台 / 2008.5.16より)
当の障害者や外国人が「日本語学習が難しいから漢字をなくせ」と言ってるないのに、余計な手出しをして学習の邪魔をしてるのは、誰だ?
あ〜、仕事終わらなくてイライラMAX♪
apoのことを語る