[自分の頭のハエも追えないくせに、と言われそうなことを敢えて言う]
被害者感情をめぐるやりとりを見ていて居たたまれない気持ちなった。
被害者には、感情表現のうえでいつもリスクがつきまとう。
被害体験によって、
●自分の気持ちを把握・肯定できない/するのをやめる(否認)
●把握していても、ストレートに表現できない(二次受傷から自分を保護)
●信念や価値観を変容させることで共同体へ復帰(合理化、理性化)
●自分を守りきれなかった自分、傷つけられ汚されたことへの罪悪感
などが植えつけられてしまった結果、ストレートなコミュニケーションが難しくなる。
このとき、本人の気持ち、望みはどこにあるのか、注意深く探る必要がある。
それが、被害者とそれを取り巻く環境への社会的な制裁なのか、
私的な復讐なのか、怒りの表明なのか、自己承認なのか、
周囲からの受容と理解なのか、癒しなのか、
それは、その人が事件後の「今」を体験している変化やフェーズ、
本来の性格によって、異なる。
そして、得られなければ、さらに傷つき、語るのをやめてしまう。(ex.「どうせ……」)
受容と共感まではいいが、それ以降のステップにおいて
自助グループで問題が起きやすくなるのも、これが原因の一つ。
立ち直る過程で、価値観と実現したい解決の姿が個人個人で異なるから。
そばに寄り添う側としては、被害者を「弱者」と見なすことが大きなリスクになる。
なぜなら、被害者が望むものが、何であれ、
それを実現するのは、わたしでなく「あなた=被害者」だからだ。
そのためには「力」が必要になる。
この点を愛の名の下にすっとばせる愛に満ちあふれた援助者ほど
「変わってあげたくても、できない」とジレンマに囚われる。
それは愚かだけども、でも何にせよ、黙ってみているのは辛いことだ。
今、この立場/役割において、できることは、ほとんどない。
ただ、見守っていることだけだ。
(こうして、ここで書いていることでそれもアヤシイものなんだけども)
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