エネルギー系のワークをするときは、通常、相手と協働してエネルギーを動かすことになる(相手にチューニングするかんじ、わたしの場合は。エネルギーラインを矯正するパワーヒーラーの場合は知らない)から、二人、あるいはn人による強い直流の中で勝手に自分も元気になってしまう。気の流れは「天⇔地」と決まっているんだから、至極当然の話。「クォンタム・タッチ』にせよ「動作法」にせよ、その根本的な原理は変わらない。
変わらない、と思ってた。
けれど、今日、直流じゃなくて「交流」の人にはじめて遭った。びっくりした。直流にして(そもそも人間の体なんだから、できないわけじゃない)ワークしたけど、この人には「交流でいる」ワケがあるわけで。(たぶんあの、わたしがダイレクトに感じた強烈なフェルトセンスを遮断というか、受けないで済むように反らしているんじゃないか、と帰宅して一眠りしてから思った)。
「もし、わたしも交流にしてたらどうなってたんだろう」と、ちょっと考える。すると、「怖かったりする」。直流の流れの中から外れてしまうかもしれない、ということに恐れを感じる。「今、あなたの体はこうなってるよ」と自分の体をつかってミラーリングすることができない(言語化はできる)のは、たぶん怖いからだ。
でも、近いうちに、どうにかして一人で「交流になってみる」体験が必要な気がした。たぶん輪っかを使うんだ。あれだ、「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」みたいな。
神戸/ハーバーランド(しばらく行ってないなァ)のは派手なのね。
(ここでいってる「直流 / 交流」はわたし独自の表現であって、正式に何て言うのかは知らない)
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