[メモ・人吉]
江戸時代、人吉藩(現在の熊本県人吉市周辺)2万2000石一、とは幕府を欺き少なく見せた石数。外からうかがい知れない山間部には隠し田があり、実質は 10万石だったという。そのため人吉藩は豊かで、作家・司馬遼太郎は著者「街道をゆく」で「日本でもっとも豊かな隠れ里」と書いた。
http://www.teinenjidai.com/ryokou/tabi/h20/10_2/index.html
江戸時代、幕府の役人が巡検を行う際、霧の多く発生する秋に時期を指定し、険しい峡谷と奇岩怪岩の急流球磨川を遡らせ「これから先はなにもありません」と追い返した、という昔話もあるこの地は、表高こそ二万二千石ながら実高、十万石以上だったとも云われており、弥生時代から肥沃な米の産地でした。
http://www7.plala.or.jp/sakuranosat_/cn4/index.html
藩財政は初期には、「長崎買物」と称される商売により潤っていた。長崎買物とは色緞子(いろどんす)・毛氈(もうせん)・天鵞絨(びろうど)など舶来織物を藩が長崎で買い、京都で販売することで利潤を上げるというものである。
また、新田開発に力を注ぎ寛永年間には21,000石もの新田が開発された。また、日本三大急流の一つである球磨川は舟の航行が不可能とされていたが、商人の林正盛が寛文5年(1665年)に改修工事を完成させた。これにより河口の八代までの水路が確保され産物の搬出入が容易になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9
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