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せきららこのことを語る

プリンスアイスワールド2018。結局今年は横浜と東伏見計3回見ました。もっと見たい。

すごく意地悪な言い方になっちゃうかもしれないけれど、町田樹のボレロは、スケートが軌道を描くものである、ということがわかってないと、その評価をするのは片手落ちじゃないかな、って思ってた。舞踏という観点からも十分楽しめる演目だと思うのだけど、でもそこだけじゃ絶対にダメって感じ。

私は元々「氷上のバレエ」をはじめとする「氷上の○○」という言葉にはずっと違和感があった。フィギュアスケートはフィギュアスケート。競技であり、音楽がある以上、舞踏としてちゃんと成立している。フィギュアスケーターは、例えばバレリーナのような動きができるから優秀、なわけじゃない。

町田樹のバレエプロ(ドンキや今回のボレロなど)をバレエ的に素晴らしい、という賞賛はそれはそれで、と思いつつモヤモヤしていた。だって、その全ての演目が、私にはフィギュアスケーター町田樹、に見えてたから。同時に、それは私自身のオタク故のこだわりなのかも、とも思っていた。

だから、町田樹がインタビューで「フィギュアスケートは(バレエやジャズダンスなどと同様に)新しい舞踏のジャンルになり得る」と口にしていたのを見たときはなんだか嬉しかった。だって、フィギュアスケートのファンは、それがわかる、って人、結構いるんじゃないかな。

今回のボレロ。振付はペジャールのボレロを想起させるようなところがある。それは根本的にこの舞踏に表されるテーマが、ペジャールのそれと同一だ、と考えたからではないのかな、と思った。ペジャールがバレエでそれをしたように、町田樹はフィギュアスケートでそれを見せた。

バレエの演目としての振付を、氷上で起こしたとしてもそれは「バレエ的」にはならないのではないか、ということを考えた。少なくともこのボレロは、エッジが描くトレース、エッジさばきがなければ舞踏として成立しない気がする。

ボレロの幕開け。フクロウの鳴き声。あたりは静寂に包まれている。一筋の光は月明かりのように見える。つまり、夜は明けていない。男は、湖が凍っていることを確かめるように足踏みをする。さらに、氷の感触を確かめるように弧を描く。

やがて男は、自由に氷の上を行き来し始める。まるで、滑ることそのものを楽しんでいるような。男にとって、氷の上を滑ることが、生きていることの証。しかし、時間は進む。夜明けが近づく。日がさせば氷は溶ける。この時間は永遠ではない

ボレロの盛り上がりに合わせて、光が差し、あたりは明るくなっていく。光は男を照らす。それは、終わりを意味する。音楽、光、高まって、男は倒れこむ。それはまさに死だと思った。肉体的な死ではなく、滑れなくなれば、男は死ぬのだ、というような。

男の死をもって「舞踏とは何か?生きることだ」って言われてるような気がしたのだ。その舞踏が、フィギュアスケートだった。それが、すごく、嬉しかった。

男の死をもって「舞踏とは何か?生きることだ」って言われてるような気がしたのだ。その舞踏が、フィギュアスケートだった。それが、すごく、嬉しかった。

町田樹のボレロの前が、PIWチームのstory of my lifeであるのも素晴らしかったと思う。今年のPIWは全ての演目で「滑る」ことが重視されていて、それはフィギュアスケートの見せ方として理にかなっていると思った。中でも、story of my life は、冒頭、エッジで、描くのだ。「私の人生」を。

フィギュアスケーターの人生は、エッジの軌跡によって描かれるのだ、ということが示されていると思った。それは、直後のボレロとは全く違うアプローチの「舞踏とは何か。生きることだ。人生だ」だった。そしてその舞踏は、フィギュアスケートなのだ。美しかった。泣いた。

それと、ファンとして言いたい。田中刑事のジョジョは名作だと思いました。ジョジョを知らなくても、十分楽しめる。田中刑事くんの手の使い方の美しさ、体の使い方、いいところがいっぱい出てる。試合のエキシでぜひやってほしい。まだまだ見せてもらえることを祈っています。