今日、ヤマケイ文庫版の『新編・西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』、多田等観の項を読んでいて、ダライ・ラマ13世が急逝し、等観に大蔵経が贈られたところでなぜか泣いてしまったのだが、なんでだろうと考えてみた。
等観は最初、大してチベットに興味もなかったのに、結果的にチベット本土の三大僧院の一つで10年の僧院修行を果たした。おそらく等観以前も以後もこういう日本人、そしてチベット文化圏外からの外国人はいないのではないかと思う。
それはさておき、その10年の僧院修行の本人と日本の家族や知己の様子が、なんだかどっかでよく似たものを自分は知っている、と思いながら読んでいたのである。
で、わかった。これはわたしにとっては、社会的な立場的にも経済的にも超不安定な博士課程後期からポスドクなどの生活と重なるのです。日本に帰ってからは旧制中学卒ということで、いわゆる帝大を出ていないから、学歴差別にもそうとう遭ったようだし。
太平洋戦争中、等観が、満州で関東軍の仕事という仏教とは関係ない仕事をしているときに、ダライ・ラマ13世との最後の文通があり、その年にダライ・ラマ13世は急逝、遺言に沿って大蔵経が等観に贈られる。贈られてもそれを十分に研究できる時世ではなかっただろうなあ、とか考えてしまう。そういういろいろがあって、泣いてしまったのだろうなあ。
だから等観が最終的に東洋文庫で職を得られてほんとうによかったなあ、と他人事ながらほっとする。そして、研究生活を諦めないでくれたことに、ありがとうと思う。