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自分(id:dadako)のことを語る

【博士と狂人】【勝手に抜粋引用】【編纂の指針と方法】
発案者トレンチ

彼は従来の辞典の欠陥と考えられる点を大きく七項目に分けて指摘した。そのほとんどは専門的で、ここでとりあげるべき事柄ではない。しかし、その基本にあるテーマはきわめて単純だった。今後辞典の編纂をする者が不可欠の信条とするべきなのは、辞典とは単に「言語の目録」であると悟ることだ、と彼は述べた。決して正しい用法を教えるための手引きではない。辞書編纂者には、良いか悪いかという基準で単語を選んで収録する権利はない。だがサミュエル・ジョンソンを含む従来のすべての編纂者たちは、まさにその罪を犯している。トレンチによれば、辞典編纂者は「歴史家であって……批評家ではない」のである。一人の独裁者のーー「または四〇
人の」と言い添えて、トレンチはパリのアカデミー・フランセーズにわざとらしく配慮して見せたーー権限で、使うべき言葉と使ってはならない言葉を決めてはならない、と彼は主張した。辞典は標準言語のなかで一定の期間使われているすべての言葉の記録であるべきだというのだ。
(……)
 ジョンソンの『辞典』は、用例を載せている点で先駆的な作品に数えられるかもしれない(たとえば、あるイタリア人がすでに一五九八年に用例を載せた辞書を編纂したと主張している)が、その用例は「意味」を説明するためだけに掲げられていた。トレンチがいま提案してる新しい冒険は、単に意味を示すだけでなく、意味の歴史を示すこと、つまりそれぞれの単語の一代記を記すことだった。そして、そのためにはあらゆる文献を読み、その単語のなんらかの歴史を示すあらゆる用例を引くことを意味した。それは膨大な時間と努力を要する途方もなく大きな仕事であり、当時のふつうの考え方からすれば、不可能だった。
(……)
この計画に着手するには、一人の力では足りない、とトレンチは言った。英語のあらゆる文献を丹念に読み、ロンドンとニューヨークのしんぶんにくまなく目を通し、雑誌や定期刊行物のうち文学的なものを綿密に調べるためには、「多くの人びとの協力」が必要だ。そのためにはチームをつくらなければならない。何百人もの人びとで構成される巨大なチームをつくり、アマチュアの人たちに「篤志協力者として」無休で仕事をもらわなければならない、とトレンチは述べた。
 聴衆はどよめいた。そのようなアイデアは、今なら自明のことと聞こえるかもしれないが、それまで提案されたことがなかったのだ。しかし、会合が終わるころになると、この提案には間違いなくメリットがあると言う者も出てきた。このアイデアには、粗野で民主的とも言える魅力があった。これはトレンチの基本的な考え方と一致していた。つまり、新しい大事典はそれ自体が民主的な作品でなければならず、個人の自由を最優先することを実証する書物でなければならない。誰もが、辞典に管理された厳格な規則に従うことなく、好きな言葉を自由に使えるのだという考え方を、身を持って示すものでなければならないのである。 (pp.123-6から
抜粋)