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勝手に引用のことを語る

問題は、テレンバッハがこうした性格像を含むうつ病全体の原因論を、自らの信奉するハイデガーの哲学用語をちりばめながら説明している点だけにあるのではない。むしろ彼自身が、このような特定の性格標識に「好ましい社会的価値」を付与している点にこそ問題がある。(中略)
 たしかに「真面目、几帳面、仕事熱心、良心的」などの性格特徴は、わが国のような大量の仕事人間や過労死を生み出す社会では高く評価されやすいし、少なくともこれまでは事実そうであった。またテレンバッハをわが国に紹介した日本人精神医学者の一部も、この性格像を(とりわけ分裂気質に対比する形で)より肯定的に価値づけようとしてきた。
 しかしながら、人間の性格を類型化したうえで、ある特定の性格だけにプラスの社会的価値を与えようとすることは、明らかに露骨な社会的差別につながるであろう。また、メランコリー型のような性格像が果して本当に「好ましい」価値を持つものかどうかも疑問である。さらには、このような性格像が社会的にみて本当に「好ましい」かどうかを、そもそも一介の精神医学者が決めるべきことであるのか、という根本的疑問も生じる。
(中略)規格化された工業製品のように画一的なパーソナリティーとそれを生み出した近代技術社会の延長線上にアウシュヴィッツのような「死の大量生産工場」が現れたことを指摘し、権威に盲従する画一的・同一的性格像に批判を加えている。また、イスラエルでのアイヒマン裁判をうけて一九六三年に始められたドイツ国内での「アウシュヴィッツ裁判」では、強制収容所で看守をしていた多くの被告人たちが特別なサディストや精神異常者であったわけではなく、実はごく平均的な「勤勉で仕事熱心、几帳面・きまじめな」中流市民であった事実が明らかにされた。(中略)そこでは、まさにテレンバッハが一時期称揚したメランコリー型性格の人間こそア
ウシュヴィッツにおいて「最も有能な」看守であったこと、つまり最も忠実に職務をこなす人間であったことが鋭く批判されているのである。  (pp.140ー142、『精神医学とナチズム』)