たとえ小説の中に作者自身が登場して何かを書いてみせたとしても、その外に常に「本物の作者
(トゥルー作者)」がいる。
それはむろん、あらゆるフィクションがそうであるわけですが、むしろメタフィクションと呼ばれる
タイプの作品のほうが、階層化されている虚構の外部に鎮座する「作者性」が、強く働いているよう
に思うのです。
つまり、メタはむしろ「作者」を強化する、メタが「トゥルー」を招き寄せるのです。
実のところ、メタとは別の方法でしか「作者性」は解体できないのだと思います。
佐々木敦「未知との遭遇」
この「自分の知ってること以外はつまらない」という感覚が暗黙に前提していて
しかし、どうしてだか忘却してしまっているのは、では自分はどうやってそれを知るに
至ったのか、ということだ。
「知っていること」も「知らないこと」だった時期が当然あるわけで、それをどんどん
遡ってけば、やがては「知る」ということの端緒に辿り着く筈なのに、ひとはいつしか
それを忘れてしまう。
「未知との遭遇」佐々木敦
僕やっぱり、人のことを”指導”なんかしたくないんですよね。
僕の好きな映画で「細雪」っていうのがあって、その中で岸恵子さんが大阪弁で
「みんな、ええようになったら、ええなあ」っていうセリフがあるんですよね。
そういうのって、自分はなんにもしないで無責任みたいに聞こえるところって
あるかもしれないけど、愛情だと思うんですよね。
他人ていうものの存在認めちゃったら、そういう形で、距離をおくしかないでしょう?
だから僕は、「みんな、ええようになったら、ええなあ」としか言えないんですよね。
橋本治「青空人生相談所」ちくま文庫 P283-284
「強いられた政治的意見」は「自発的な政治的意見」より歯止めを失って暴走する傾向が強いことを案じているのである。
歴史を振り返るとわかるが、「強制された政治的意見」を人々は状況が変わるといとも簡単に捨て去る。
後になって「ほんとうは反対だったのだが、あのときは反対できる空気ではなかった」という言い訳が通ると思えば、人はどれほど過激な政策にも同調する。私が恐れるのはそのことである。
多数派であることのリスクについて/内田樹の研究室/9月20日
人間メンドクサがって体使うのが嫌になると、退化して、より厄介な事態を背負いこんじゃうんだけどな。(中略)怠惰はくせになるよ。そのくせになった怠惰が、余分なエネルギーの浪費を蔓延させるんだよ。
(橋本治/「’89(下)」河出文庫)