一緒に上京し大学時代は時々遊んでいた大友(おおとも、仮名)とは15年逢ってないが数年前から年賀状は交換するようになった。
彼のことを思い出すたびに、「大友が…おっとも!(いるとも!)」というダジャレが一緒に出てくる。
情けなく悲しくなる。友達の名前をダジャレでからかわなければよかったと、思い出すたびに思う。
私が一方的に言っていただけではない。上野を散策してて根津駅に来たとき、唐突に彼が「…起きてても…根津(寝ず)!」と言ったときのことは今も鮮明に思い出す。(冷静に考えれば「起きてても寝ず」って繋がりが変。)
思えば照れ隠しのダジャレまみれの青春だった。そしてそれがハイクにつながる道だったのだ。
元亭主と結婚を前提としない交際をしていた頃、ものすごい高熱で私が寝込んでいるときに焼き餃子を見舞いに持ってこられた事があったのだけど
やっぱりそれかしらーーーーーーー どうかしらーーーーー
多分そうだわーーー
保育園の遊戯会で割り振られた配役が「あまのじゃく」
職場で「小三治に似てる」って言われたことかなあ、もしかして。
日曜日の午後5時20分は必ず笑点(昔は40分番組だった)を観ていた小中高校時代。
大喜利の面白さに目覚めてしまったのが、運の尽きか…
(その昔、桂歌丸師(ハゲ)と三遊亭小円遊師(キザ)の掛け合い(罵り合いとも言う)が大好きでした。)
中学の国語の授業で、教科書に載っていた俵万智の短歌のパロディを思いつき、
我慢できずに書いて先生に怒られるかな…とびくびくしていたら、思いがけず褒められたこと。
母乳は充分すぎるほど貰っていたのに、
哺乳瓶と粉ミルクに憧れていた赤ちゃん時代。
6歳のときだれにも教わらずに初めて書いた詩がどういうわけか七五調だった。
ファミコン全盛時にあえてMSX2+を買い、MSX-FANに自作の変な音楽プログラムを投稿してた。
みんなと同じ黄色いのはいや!とランドセルの雨カバーをおしゃれしてた小学生時代。
買ってもらったランドセルもなんかちょっと変わったメーカーだったような。
ゲーム業界にいたころファミ通本誌の新作ゲーム欄をろくに読まず、
スタパ斉藤が書いていた「女神の四の地固め」「悪魔の電気椅子」ばかり欠かさず読み
仕事を離れてからもバックナンバー数年分を書き写さんばかりに熱狂していたこと。
小学校1年か2年のとき、授業で出された「洒落を作りなさい」というお題に対し、「ポストぽすっと手紙を入れた」てな回答をしたらしい。
私はすっかり忘れていましたが、当時のクラスメイツのid:merrilinさんに教えてもらいました。
誕生日プレゼントにファミコン通信を買ってもらう→うちにはディグダグとフロントラインしかないし…この町内会っておもしれえな→ログインというのもあるのか→なにこのヤマログってsugeeee!
しりとり思いつかない時、架空のモノを捏造して叱られた三十数年前。
しりとり思いつかない時、架空のモノを捏造して叱られた三十数年前。
同級生がジャンプやサンデーやマガジンを回し読みする中、
自分の愛読雑誌は「暮しの手帖」だった。
レゴブロックよりもダイヤブロックが大好きだった三十数年前。