もしかしたらそのご質問にご期待どうり答えられない可能性があるのですが(というのはもう大学出て十数年たつので)、「憲法は国民の統治権力への契約書である」というのをきちんと理解してない可能性があります。社会契約論みたいなものだろうか、と思いつつ確信が持てないので、法の支配や法治主義のことである、というふうに理解して以下、述べさせてください。
法の支配とかの考え方にはどの本で勉強したかなどによって、差異があることがあって、「実質的法治主義」(法律による行政の原則および法律の内容の適正)と、国民の権利や自由を擁護する「法の支配」というのをよく一緒にして・同じものとして理解することが多く(よく芦部説といいます)、わりと多数派です。その立場をとらない少数派は法治主義が行政による事前の権力抑制にに親和的で、法の支配は司法制度を整備して訴訟などを行う事後抑制に親和的、という考え方をしたりします(佐藤説)。国民が法の支配をより達成するためには市民が訴訟に裁判員として参加したほうがいい、という考えなどはそこらへん(佐藤説)からでてきます。
ただどちらにしても、法によって権力を拘束して、人権等を守ろうとする考え方はあんまり変わりません(と思います。もしそれ以外の考え方があるとすると、私の勉強不足かもしれません)。
で、99条に戻ります。
でもって統治機構や99条の擁護義務等に国民が入ることに関しては上記のどちらの説をとる人もあんまりは変わらないと思われます。この点、訂正というか私の書き方がまずかったと思われます。お詫びします。
尊重と擁護のところに国民が入っていないのは、基本的に人権を確保するために権力を拘束する目的のために国民が憲法を作って権力に押し付けた、国民から憲法を権力に押し付けてるから国民に憲法忠誠をもとめてはいない、という考え方です。おそらく多くの法学部出身者なものの考え方です。
しかし憲法12条が「国民の不断の努力」による自由・権利の保持を強く呼びかけながら、憲法全般の尊重擁護に関する99条において国民を含めなかったことにはそれなりの理由を考慮すべきで、なぜかといったらそれはやはり明記してしまうと憲法に対する忠誠の要求の名の下に国民の自由が侵害されることを恐れたのではないかな、と思うのです。ただここまでの考え方はあんまりする人はいないので少数説と書きました(上記の佐藤先生の見解でもあります)。
でもってはなしがぽんぽんとんで恐縮なのですが、国民に憲法への忠誠を要求しないゆるゆるが徹底した自由主義でありつつも、それを生かさずにどこかからでてきた改正試案なんてのを考えると、ドイツにはおいついてないのではないか、というのはなんだかよくわかるよなあ、と思ってしまったのです。
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