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差別のことを語る

○国際人権規約などを参照すると言語や民族や宗教であるとかほぼ半永久的に変化しない可能性のある属性を持つものとマイノリティという言葉はつながっていることがちらちらと見えてきます。国連のマイノリティ権利宣言などでも同様です。言語や民族や宗教などがでてくる理由のひとつとして少数民族の言語や信仰、文化があります。その集団がその集団たらしめるのに言語や文化や宗教は重要な要素であるものの、しかし多数派の文化に圧倒的に取りかこまれてるときに固有の言語の習得や文化の維持が難しいので同化され・同化を強要され、抑圧されやすいのです。それらの信仰や言語などほぼ半永久的に変化しない可能性のある属性を持つ被支配階級というか多数派に抑圧されやすい対象をマイノリティと定義しているのが国連や国際人権規約などの文書からみてとれます。マイノリティに障碍者であるとかセクシャルマイノリティを含めるべきかとか根深い議論があります。しかし民族や言語や宗教などと同様にほぼ半永久的に変化しない可能性がある属性を持つものであり含めるべきかと考え、私は含めて書いています。私がマイノリティとして念頭にあったのは「ほぼ半永久的に変化しない可能性のある属性を持つ」民族であったり信仰を持つ集団であったりセクシャルマイノリティであったり、です。
ですから正直に書きますと
>特定のマイノリティはあくまで特定の文脈上でのマイノリティでしかないです。
>例えば性指向という分類ではマイノリティの人も
>人種という分類だとマジョリティだったりするわけです。
という文章を読んでそういう考え方をほぼはじめてあたったので正直かなり困惑しているのが実情です。
>場に複数の人間が居るとして、最初の文脈で一人の人がマイノリティであったとしても、
>次の文脈ではその人はマジョリティとなり別の人がマイノリティになったりしうるわけです。
というの文章からマイノリティは「相対的なものである」ということを述べたいのかなと推測します。が、必ずしも絶対的なものではないという点で相対的であるかもしれぬものの、同意はできません。
たとえとして適当かどうかはわかりませんが、ユダヤ人はユダヤ教を信仰する人のことを本来はさしていましたが、ナチスによって血の問題にすり替えられています。その人たちがその人たちである理由ですらすり替えられやすいのです。似たようなものとして繰り返しになりますが、セクシャルマイノリティ=LGBTというものがあったりします。とても大事なところで「=」ではないのですが、少数派ゆえにLGBT以外のセクシャルマイノリティは存在すら無くされやすいのです。繰り返しになりますが個人的には信仰であるとか性的指向であるとか(それ以外にもあり得ますが)その人たちをその人たちたらしめる「ほぼ半永久的に変化しない可能性のある属性を持つもの」のうち、国家であるとかの社会の中で多数派たりえない抑圧されやすい少数をマイノリティと定義すべきではないか、と考えています。
前提の段階からしてこれらの違いを踏まえるとtick2tackさんとはおそらく永遠に平行線をたどり話がかみ合わないない可能性があります。
ので、あけすけに語ってしまうとここでの対話は双方にとってなにひとついいことが無い徒労に終わっちまうかもしれません。
また、遡ってみてもらえるとわかるのですがこの差別のスレでテレビ局のマイノリティに関する笑いについてtick2tackさんが述べていたので、論点をなるべく「笑い」に沿ってお話してるつもりです。「笑い」ということに関して再三述べてきたのですが、差異があるとその差異を笑う≒「みんな△△なのにあいつら◇◇なんだぜ」であるとか、わかりやすい差異を殊更強調してコケにするとか、その差異が半永久的であればあるほどそれが蔑視につながりやく、その蔑視につながりやすい「笑い」は笑いの対象となる被対象者からすると抑圧と感じやすいのです。立場をもう一度述べさせていただくと表現の自由の手前、とても言いにくいのですが、なるべく不特定多数の人の前では特定少数を笑うような手の笑いのネタはやるべきではないのではないか、と考えています。ただ
>蔑みや排除、思想の強制、尊厳の棄損など不利益な行為が
>マイノリティの意に反して行われることです。
>「マイノリティの意思を尊重しない」ということが問題なのです。
というところは同床異夢かもしれぬものの語句としては不思議なくらいほぼ同じ意見です。
完全に異なるのは「差別的な笑いが繰り返しなされることであいつらは笑っていい存在である≒同じ人間ではないという意識が生まれかねず、そこに差別が増幅してしまうのではないか」「どこかで止めて欲しいというのがあります」という問いに関連して
>差別は対象が社会から排除されることによって差別となります。
>なので「笑っていい存在」という共通意識が社会にできた段階で
>その笑いは差別的行為となります。
という返答があったのですが、差別が存在すれば対象者が強い抑圧もしくは抑圧を感じかねないのですが、強い抑圧もしくは抑圧を感じる人間を矢面に立たせながら抑圧を受け止め続けろ、ということほど非人道的でより差別的な行為なのではないか、と愚考します。
>笑いを規制することで共通意識を形成させないよりかは、
>笑いをやってもその共通意識が形成されないようにする方法を考えたほうが、
>自由を妨げず好ましいのではないでしょうか。
表現の自由というものを考えると同意したい誘惑にかられますが、でも差別があったとき、副作用としての抑圧を受忍すべきだということであるのなら、その表現の自由の前に、人・個人というのは屈しなければならないのでしょうか。
○以下、笑いからちょっと離れます。
>例えば黒人について間違った印象が形成されたとして、
>もう訂正する機会がほぼ無いと考えるでしょうか
多少ずれちまうかもなんすが、馬鹿正直に書くと答えるのがこの問いはすごく難しいです。訂正する機会はあります。でも万能ではありません。どちらかというと白人優位の社会構造の中で黒人に対する侮蔑表現の蔓延した場合、黒人一般を蔑視しする環境になりはしまいかとか、どちらかというと男性優位の社会で女性が出ているポルノの蔓延というものが、女性一般に対する蔑視や女性差別の固定化につながるのではないか、という問題提起が90年代には合衆国にはありました。とくにポルノに関してはある程度の表現規制はやむを得ないのではないかという説を唱えてる学者もいて、当然のこととして当時から表現規制などするべきではないという批判があるのですが、「Me too」の動きなどから垣間見えてくるセクハラの問題などや(底には伏流水のように女性蔑視があるのではないかと思えて仕方ないのです)、昨今の黒人が反発するような発言が消えない状況を考えると、頭を抱えてしまうのです。