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id:lieutar
差別のことを語る

「私は差別をしない」と言う人は差別が何かを解っていない。
差別は文化や制度の中に気がついたら組込まれていると言うものなのだから、悪意などなくても、あるいは余程注意していても加担してしまうものなのだから、せいぜい我々に出来ることは気をつけ続け、問題があるものを訴え続けることしか出来ない。
そして解っていないものについて努力をすることは原理的にできない。

id:lieutar
差別のことを語る

被差別の体験は差別を憎む切っ掛けになることは確かなんだけど、被差別者が「でも私はあの人達よりはマシなはずだから」と別の差別に救いを求めることでむしろ差別をより深く内面化することもありえるわけで、被差別の体験と言うのは差別を憎む条件としては不十分らしい。
尊厳の回復のために、自らを差別した言説の瑕疵を見つけようとするとき、人権思想のようなものをある程度参照できる場合には自らに対する差別を一般化して考える切っ掛けにしやすいとは思う。ただ、そういうものに触れられないとか、「机上の空論」のように捉え頼りがないと考えられてしまう場合は、そ…[全文を見る]

id:lieutar
差別のことを語る

(承前)

小集団の中である差別が大集団の中では観測されず、大集団側からは差別問題としてではなく「いじめ」問題として観測されることもあるのとは逆に、小集団の中でむしろ大集団の差別が解消されていると言うこともあって、そういった集団の中に外側から入ってこようとした人が強い差別感情を抱えていてそこを差別主義的にオルグしようとするとかで、その集団から弾かれてしまうとか、そのことを恨んでより差別感情を深化させると言うことは比較的観測されやすいことではないかと思う。
たとえば性差別のあまりない集団の中に性差別を持ち込もうとする人がいるとか。

ま…[全文を見る]

id:lieutar
差別のことを語る

(承前)

たとえば3名以上、高々千名程度までの小さな社会があるとして、そのなかでの偏見や差別と言うものもあると思う。
ただ、それがその外側に影響がない場合にそれは偏見や差別とはならず、個人のいち側面やいじめとして映るのではないだろうか。
また、こういった小単位内での差別が、異なる単位のものと比べられより一般化され広く差別となるものがあると思う。

これは、まずそこに差別があり、それが内面化されることで感情までをも動かし差別感情とするようなものと体験としては異なるが、差別の発生のときにはこういったものがあるのではないかなとか。

id:dadako
差別のことを語る

(承前)
それでも「差別があった」「それがほんとうにむごかった」ということが、大河ドラマの中できちんと、史実の一部として大きく描かれてるのは、非常にまともで羨ましいことだと思う。
表現の自由。

id:lieutar
差別のことを語る

(承前)

差別の定義に対しての補足。
ある人々を抑圧する行為と言うか、より正確には、社会のなかである人々が抑圧されている構造があり、それに加担して行く行為。
だから差別の観測はなんらかの行為から観測されるのではなく、具体的な抑圧から観測されると思う。

ならば差別感情とはそういった抑圧構造の内面化に基く感情と定義するのが正しいかな?

id:lieutar
差別のことを語る

差別についての議論にて、「差別」の語の定義のあいまいさが厄介だなと思うんだけれど、とりあえず差別と偏見を分けて考えてみるのはどうかと思ったり。
で、これらの概念は非常に近しい関係性があるんだけれど、どちらかがどちらを包含するものではなく、偏見のない差別と言うものもあるし、差別には至らない偏見というものもあると考えている。
で、まずそれぞれの定義なんだけれど、差別とは社会のなかにある人々を抑圧する行為であり、偏見とは不適切な属性に基く評価のこと。
だから当然ある偏見が蔓延することは、その属性をもつ人々を抑圧することに繋がり差別にはな…[全文を見る]

id:gustav5
差別のことを語る

国連人権規約とは書いてないです国際人権規約です。たとえば国際人権規約B規約27条には独自の教育が保障される主体として宗教的マイノリティ、言語的マイノリティの記述があります。92年の国連・マイノリティ権利宣言のなかにも宗教的、言語的マイノリティの記述があります。残念ながらというべきか確たる共通認識が日本を含めた各国で確立されているわけではありません。チベットやロヒンギャを含めて紛糾するのはそこらへんから由来します。
>言語や宗教は "ほぼ永久的に変化しない" なんてことはありません。
そりゃ鎖国でもしない限り厳密にいえば変わりま…[全文を見る]

id:gustav5
差別のことを語る

○国際人権規約などを参照すると言語や民族や宗教であるとかほぼ半永久的に変化しない可能性のある属性を持つものとマイノリティという言葉はつながっていることがちらちらと見えてきます。国連のマイノリティ権利宣言などでも同様です。言語や民族や宗教などがでてくる理由のひとつとして少数民族の言語や信仰、文化があります。その集団がその集団たらしめるのに言語や文化や宗教は重要な要素であるものの、しかし多数派の文化に圧倒的に取りかこまれてるときに固有の言語の習得や文化の維持が難しいので同化され・同化を強要され、抑圧されやすいのです。それらの信仰や言…[全文を見る]

id:gustav5
差別のことを語る

同化の強化というのは書いていませんが、同化の強制についていえば、「単純なその場での同調の要求」や「批判意見の排除」や「文化・価値観を合わせることの強要」ってのは笑いに限らず起きます。「笑い」に関して言えば「みんな笑っているのになんでそんなことで文句をつけるのか」ということが起こりえるわけです。でもって、
「笑いものにする」という言葉がある限り笑いというのは時として差別と表裏一体です、
とかいたのは、差異があるとその差異を笑う≒「みんな△△なのにあいつら◇◇なんだぜ」という前提で笑うことになるのですが、なにも他人を笑わせるために差異があ…[全文を見る]

id:gustav5
差別のことを語る

同化の強制というのは、わかりやすく書けば多数派の人たちが「おれたちはこうやってたんだからおまえたちもこうするべきだ」という点です。もっとわかりやすい例でいえば、大多数の人が少数派を笑いにするネタで笑ってるなら、それを文句をつけるべきではない、という強制です。「笑いものにする」という言葉がある限り笑いというのは時として差別と表裏一体です。他人を笑う風潮は強い縛りになってしまう、縛りがないほうが良い、というのはわからないでもないですが、だとすると、そこに差別は残ります。なるべく不特定多数の人の前では特定少数を笑うような手のネタはや…[全文を見る]

id:gustav5
差別のことを語る

「笑い」というのはおおまかに2種類あって、「笑わせる」ことと「笑われる」ことです。笑いのネタという場合、前者はテクニックが必要だからそれを扱う漫才師や落語家は師匠と呼ばれるわけです。後者はテクニックは必要ありません。バカなことをすればいいわけです。人間だれしもプライドがありますから笑われるのは嫌です。そうすると自分でない全然関係ない誰かをターゲットにしてバカにすれば笑いが取れます。たまにそこでマイノリティがでてきちまうわけです。絶対安全地帯にいると思ってる人が、自分たちと違う存在がいて、あの人たちは笑っていいと思うからこそ、マイ…[全文を見る]